
客電がつき、他の客が席を立つ。だが、自分はこの空間でもう少しスクリーンを見つめていたい。さっきまでそこに存在した、豊かな物語を反芻したい。そんな気分になる映画だ。
それからもう一つ。家族で写真を撮ることの重要性が体中に染み渡る。本作のエンディングでこんなせりふが飛び交う。「写真を撮るのはこの家族の流儀だから」「さあ、笑って!」。何気ない言葉だが、ある日突然、誰かがいなくなる可能性を描いた本作に接すると、それは重要な儀式だと感じられる。
1970年代、軍事政権下のブラジルで発生した元連邦下院議員ルーベンス・パイヴァの失踪事件を家族の視点で描いた本作は、ウォルター・サレス監督の10代の実体験も重ねられている。1960年代末、リオデジャネイロに戻ってきたサレス監督と家族ぐるみの付き合いをしていたのがパイヴァ家だったという。実話をベースにした物語は起伏に満ちている。
ルーベンス・パイヴァはかつて議員だったが、1964年の軍事クーデターで議員資格を剥奪された。欧州での亡命生活を経て母国に戻り、土木技術師としてリオデジャネイロでと妻エウニセと5人の子どもに囲まれ、穏やかな日々を送っている。
映画の第1幕では、7人の家族の楽しい団らんが強調される。公道を行く兵士を乗せたトラックやヘリコプターの音など、軍政下の緊張も顔をのぞかせるが、4人の娘と1人の息子に囲まれたにぎやかな生活は、何一つ不自由ないように見える。
物語がダークな色調を帯び始めるのは、(劇場パンフの年表によると)1971年1月20日。ルーベンスが軍の関係者に自宅から連行される。翌日にはエウニセと次女エリアナも拘束され、軍施設で過酷な尋問を受ける。幸い帰宅を許された2人だが、ルーベンスは帰ってこない。夫の消息を確かめようと、エウニセはあらゆる手を尽くしながら、5人の子どもを育てるため、ある決意を固める-。
ざっくり言えば、実際に存在した軍事政権に対する抵抗の話だ。だが、ゲリラ戦や銃撃シーンは一切出てこない。サレス監督は徹頭徹尾、エウニセの視点で「大黒柱」を失った家族を描く。拷問も行われたとされる軍施設の描写も、「それ」を音だけで表現する。2024年の第96回アカデミー賞で国際長編映画賞に選ばれた「関心領域」を思い出させる。
いいことも悪いことも起こるが、各シーンの引力がとても強い。鑑賞後に、好きな場面を語り合いたくなるタイプの映画だ。上記の、拘留中の極限状態に置かれたエウニセの表情もその一つといえる。
個人的に引かれたのは、12日間の拘束後に家に戻ったエウニセが、厳しい尋問の記憶も洗い流そうとしているかのように入念に体を洗う姿を、三女がそっと見つめるシーン。それから、リオデジャネイロの家からの引っ越しの日にポーチに座って涙ぐむ四女にエウニセがあるものを見せるシーン。どちらも必要最小限のせりふで、家族の間にしか存在しない「互いを必要としている」感情を見事に表現していた。見ていてグッときた。
静岡つながりで言えば、2019年に掛川市で開かれたFestival de Frueに出演したトン・ゼーの「JIMMY,RENDA-SE」が序盤の印象的な場面で流れる。カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルらと、1960年代のブラジルのポップカルチャーの革命運動「トロピカリア」に参加した彼の曲がカーオーディオで流され、その車が軍の捜査機関の検問を受ける、という場面は非常に示唆的だった。
静岡つながりをもう一つ。エウニセを演じたフェルナンダ・トーレスが、劇場パンフのインタビューで静岡県に縁の深い徳川家康に言及している。森林政策についての話で、おそらくは県民、あるいは日本国民もあまり目を向けていない部分ではないか。
(は)