
5月下旬に「扇谷家の不思議な家じまい」(双葉社)を出したばかりの著者が矢継ぎ早に繰り出す単著5冊目は、毎夏恒例「清水みなと祭り」の「港かっぽれ」を中央にでんと据えた、これぞ真っ当な青春群像劇。「爽快」に全振りしたような高校生の物語は、開放感と推進力に満ちている。これまでで最も「腕力」を感じる作品だ。
期間限定の地域連携部活動のかっぽれ部「清水いなせ組」に集まった静岡市内7校10人の高校生。体力も連帯感もない彼らが、それぞれに抱える過去の傷や虚勢を超えて結束を強め、4~7月の稽古を通じて「誰よりも港かっぽれをカッコよく踊る」という目標に突き進む。汗と涙の4カ月を経て、8月2日の「清水みなと祭り総おどり」の当日がやってきた―。
昨年12月発刊の「17歳のサリーダ」(講談社)は、スペインのフラメンコ音楽やダンスの構造、世界観が詳しく説明され、エンディングに向かって物語のスピードがぐんぐん上がっていく様子がとても心地よかった。「踊れ、かっぽれ」にも、「17歳のサリーダ」で得られるのと同種のカタルシスがある。ただ、その「量」が格段に増加している。
個人的な体感では2倍超、といったところか。「17歳のサリーダ」は登場人物3人のドラマがより合わさって構成されるが、「踊れ、かっぽれ」は、主に6人の高校生のバックグラウンドが語られる。
「彼女と彼」「彼と彼」「彼女と彼女」の話を継ぎ目なく展開し作品世界を拡張する、というのは実石さんの得意な手法だろう。今回も多様なエピソード群を出っ張りなく組み合わせ、伏線もきっちり回収する。「あれは結局どうなったんだっけ」というもやもやが一切ない。

「静岡小説」を書くことにある種の覚悟が感じられるのも美点だ。高校生たちの名字は宮城島、良知、望月、村松、佐野、杉山など。この姓がそろうのは47都道府県のうち一つしかない。ある登場人物がアルバイトする居酒屋の客を「大石さん」と名付けるあたりも抜かりなさを感じる。
高校生の一人が帰路の交通手段を聞かれて「家は春日町だからな。静鉄の方が楽」と答えたり、老舗缶詰工場の跡継ぎが出てきたり、高校の部室の窓の向こうから船の汽笛が聞こえてきたりは、実際に長くこの地で暮らしていないと出てこない描写だろう。
静岡おでんの牛すじのダシの説明は「それにしょっぱいだけじゃなくて、ほんのり甘みとコクがあるよ」。多くのグルメ番組やグルメ雑誌で紹介されている静岡おでんだが、これ以上的確な表現があるだろうか。
実石さんの近作はいわゆる「パンチライン」の宝庫だ。今作の中から個人的に感銘を受けたものを挙げて、この原稿を締めよう。青春は面倒くさい。でも美しい。
「自分の心は自分で納得させるしかないよね」「納得のきっかけがなんであれ、そこに導くのはこれまでの自分なんだよ。だから世界や運命に裏切られても、自分で自分を裏切ったらいけないんだ」
(は)