元日本代表DF太田宏介さんがサッカー人生で初めて悔し泣きしたのは…清水エスパルス時代の天皇杯・鹿島アントラーズ戦で見た光景
鬼頭:太田さんのプロフィールを紹介します。東京都出身の37歳、現在の麻布大学付属高校(神奈川県)に進学し、2年生と3年生の時に全国高校サッカー選手権大会に出場。高校卒業後、横浜FCに加入し、2009年に清水エスパルスに移籍しました。
その後、FC東京、オランダのクラブ、名古屋グランパス、オーストラリアのクラブを渡り歩き、2022年、地元の町田ゼルビアに移籍。去年10月に現役を引退しました。現在は町田ゼルビアのアンバサダーを務めています。
町田の黒田監督は言葉のチョイスがうまい
ヒデ:まずは町田ゼルビアのことをお聞きします。J1初年度でこの強さ、大活躍。僕はここまでとは想像していませんでした。自身ではどのように感じていますか?太田:まさかJ1の首位に立っているということは予想できなかったです。ただ、上位に食い込んでいけるとは思っていました。去年から守備をベースにしたサッカーを徹底するようになり、黒田監督の求めるサッカーを選手たちがピッチ上でしっかり表現できるようになりました。なので、選手たちのモチベーションも常に高いですし、勝てる良い集団になってきましたね。
ヒデ:非常にシンプルな教えの中に強さを求められているんですね。
太田:言葉の一つひとつが分かりやすく、選手たちへの落とし込みも上手です。監督は選手たちのお尻に火をつけるようなモチベーターですね。言葉のチョイスがものすごくうまいです。
麻布大学付属時代に全国出場
ヒデ:高校は麻布大付属渕野辺(現麻布大学付属)。賢そう。なぜここを選んだのですか?太田:家庭も大変な時期だったので、ユースチームのセレクションも受けました。桐光学園など神奈川の強豪校にも行きたかったんですけど、今川崎フロンターレで活躍している同級生の小林悠選手と彼の母に声をかけてもらって進学しました。
ヒデ:2人にはすごい絆があるということですね。実際に、学校として初めて選手権に出場しましたね。
太田:僕が1年生の時は県でベスト16になったことが凄いとされるくらいのレベルでした。僕たちの代で体育コース(現在は募集を停止している)ができて、選手が集まったことで、2年生の時と3年生の時に全国大会に出ることができました。
ヒデ:残念ながらどちらも結果は初戦敗退で、第84回大会の時はPKで敗退しましたが、すごい歴史をつくった世代の一人ということだね。
太田:元清水エスパルスで今は名古屋グランパスに所属している中山克広も同じ高校出身です。まだ学校のサッカー部の歴史は浅くて、歴代のJリーガーも少ないですが、良い3年間を過ごせました。
18年のプロ生活を支えた「母への思い」
ヒデ:高校時代が評価されたんですね。いろいろなところからスカウトはあったんですか?太田:全くないです。大学も3校ほどお話は頂いていたんですけど、やっぱりプロにいきたくて。大学に行っても学費が払えないので、就職するかプロの道か、どちらかしかありませんでした。どうしようか悩んでいたところ、最後の最後に横浜FCが声をかけてくれました。
ヒデ:まさに雑草魂ですね…。
太田:1年目はプロとはいえないくらいの金額でしたから、そこから這い上がって、母親を幸せにしたいという思いでずっとやってきました。
ヒデ:それこそ最後の会見の時にもお母様が来られていましたね。「なにくそ根性」があったから今があると思いますが、やっぱりプロはきつかったですか?
太田:厳しかったですね。今までやってきたことが何も通用しなくて、練習ではボールをもらったりするのがとにかく怖くて仕方がなかったです。ミスをすれば、当時の先輩たちは怖かったですから(笑)
ヒデ:もの凄い緊張感がある中で毎日練習していたんですね。
小野伸二さんは人間性もスペシャル
鬼頭:そして2009年、清水エスパルスに移籍。約3年間、思い出はありますか?太田:初めて年間を通してJ1の舞台で出場機会を得られました。長谷川健太さんの厳しい指導の中で、精神的にも肉体的にも鍛えられた3年間でしたね。
ヒデ:スピードとかボディコンタクトなど、ついていけたんですか?
太田:経験の部分が足りなかったですが、1試合ずつこなしながら、先輩たちに追い付け追い越せの精神でやっていましたね。当時は小野伸二さんや岡崎慎司君、藤本淳吾さんら、そうそうたるメンバーがいました。
ヒデ:やっぱり小野伸二は上手いんだよね。
太田:上手いし、僕が語っちゃいけないけど、人間性も本当にスペシャルな人なので。勉強になることが沢山ありました。
ヒデ:特に印象に残っている試合やシーンはありますか?
太田:2010年、健太さんが最後の年、天皇杯決勝。国立という舞台で鹿島アントラーズに負けてしまったのですが、元旦に鹿島のメンバーがトロフィーを掲げている姿をピッチから見て、サッカー人生で初めて悔し泣きしました。
ヒデ:掲げているほうのチームばかりに目がいくし、カメラもそっちを狙うから伝わらないところがあったけど、悔し泣きしたんだね…。それが次につながる糧になったんでしょうね。
「チームメートに恵まれた」
鬼頭:2012年にFC東京に移籍してさらに大活躍し、名を轟かせました。2014年にリーグ戦全試合に出場し、Jリーグのベスト11にも選出。さらに4年ぶりにA代表にも選出されました。ヒデ:ここが宏介を一番世に印象づけたかなと思います。
太田:クロスやセットプレーが得点につながるようになって、これまでやってきたことが数字として結果に出始めたのがこの時期でした。心身ともに充実していましたね。
ヒデ:お母様も喜んだでしょうね。よく試合は見に来られていたんですか?
太田:ホームゲームは毎試合来ていました。
鬼頭:どんどん上手くなっていったのはなぜだと思いますか?
太田:結果を出すためにたくさん努力してきましたが、やっぱりチームメートに恵まれましたね。清水の時は、僕がクロスを上げたら真ん中にヨンセンや岡崎慎司がいて、どんな悪いボールを上げてもヘディングで合わせてくれました。FC東京にいってからは、前田遼一さん、平山相太君、武藤嘉紀がいました。僕の長所を引き出してくれたチームメートとの縁があって、振り返るとラッキーだったなと思います。
29歳で海外初挑戦
鬼頭:2015年12月に海外、オランダ1部リーグのクラブに移籍しました。初めての海外クラブですね。いかがでしたか?太田:29歳での海外初挑戦。かなり遅い年齢というのはありますが、その年齢でも声をかけてくれたことに幸せを感じました。あとは、刺激をたくさん受けたので、楽しかったですね。自分のことを全く知らない土地に行って、言葉や文化が違うなかで生活すること自体もすごく刺激的でした。何より、同世代が20代前半から海外にいっている姿を見ていたので、僕もいつかはという思いはありました。
ヒデ:行くと行かないとでは全然違う。何がオランダのすごさですか?
太田:何より選手の意識ですね。とにかく這い上がって、たくさんお金を稼いで、家族を幸せにしたいという思いがありました。
鬼頭:先ほど経済的に余裕がなかったという話がありました。親孝行とか家族孝行の気持ちがサポーター孝行にもなっているんでしょうね。
太田:ハングリーさをかなり痛感しました。今までの自分は甘えていたなとその年齢で感じることができました。僕にとっては大きな1年間でしたね。
ヒデ:だから、早くから海外にいく意味があるんだろうね。
太田:そうですね。サッカーだけじゃなくて、生活もするということで行った人にしか分からない感覚はありますね。
清水エスパルスへのエール
鬼頭:今の清水エスパルスについてもお伺いしたいです。現在はJ2の世界にいますが、OBとして、この状況をどう見ていますか?ヒデ:本来J1にいるべきチームだなと思いますが、今の力を見る限り、このままコンスタントに力を出していけば、昇格することは当然という見方でしょうか。
太田:当然じゃないですかね。やっぱりチーム力やクオリティーは別格ですよね。あとは、選手たちが最後まで自信を持って戦い抜くこと。ホームゲームで結果を出せるのは、エスパルスのファミリーの強さでもあると思います。最後まで期待したいですね。
ヒデ:リスナーからたくさん質問が来ています。「名古屋グランパスの若い選手に何か感じていたことはありますか?」
太田:意識が違いますね。一つひとつの練習、試合にかける準備の時間だったり、食事、身体のケアだったり。やっぱり上にあがっていく選手たちのサッカーに対する根本的な姿勢が全然違いますね。
ヒデ:「左からのクロスに惚れ惚れしていました」という声や「数多くのアシストは今でも覚えています」という声なども届いております。最後に、自身の夢やサッカーに対する熱い思いを語ってください!
太田:18年間プロサッカー選手としてのキャリアを築かせていただきました。エスパルスをはじめ多くのサッカーファミリーの下、大好きなサッカーを続けることができました。
色々な形でサッカーの普及に関わっていきたいと思っています。あとは、吉本興業に所属しているので、いろんなメディアに出演して、違った角度からサッカーを伝えられるようにしたいなと思っています。
サッカー大好き芸人、ペナルティ・ヒデと、サッカー中継のリポーターとしても活躍する鬼頭里枝の2人がお送りする番組。Jリーグから海外サッカー、ユース世代、障がい者サッカーなど幅広くスポットを当て、サッカーを通して静岡を盛り上げます。目指すは「サッカー王国静岡の復権」です!