終戦から77年 戦争体験どう語り継ぐ?
2022年8月15日のきょう、終戦から77年を迎えました。毎年この時期になると目にする機会の増える当時の生々しい映像、皆さんはどのようにご覧になりますか。戦争を伝える惨劇映像は、子どもに悪影響を及ぼすとの専門家の意見もあり、平和教育の現場でも試行錯誤が続いています。戦争を体験した世代が減少する中、その記憶を子どもたちに、どう伝えていけばよいのでしょう。静岡県内の取り組みについてまとめます。
〈キュレーター:編集局未来戦略チーム 安達美佑〉
子どもたちにどう伝えていますか? 話す時のポイントは
ロシアがウクライナに侵攻して以降、爆撃を受けた街並みや遺体の映像がインターネットなどで連日流れるようになりました。戦争の悲惨さを子どもたちに伝える機会ではありますが、あまりにも暴力的な映像からは子どもを遠ざけた方がいいという声が上がっています。語り部の高齢化や新型コロナウイルス禍で平和教育の機会が減る今、ウクライナやロシアのこと、戦争のことを、子どもたちにどう伝えていますか。(社会部・南部明宏、大須賀伸江)
惨劇映像 見せる?見せない?
「これから焼死体の絵の映像が出てきます」。静岡市立竜南小で行われた6年生の平和教育で「静岡平和資料館をつくる会」の田中明充さん(78)は、子どもたちが突然の生々しい映像に驚かないよう気を配った。
1945年6月の静岡空襲の説明中、スクリーンに映し出されたのは戦争経験者が残した体験画だった。猛火に巻かれる人々や防空壕[ごう]の中に並んだ遺体、防火水槽の中で両手を天に突き上げたまま黒焦げになった人…。「死者2000人」「10万発の焼夷[しょうい]弾」などと熱心にメモを取っていた児童らは息をのんで見入った。
同会はこうした貴重な体験画を約125点所蔵している。田中さんは平和教育の講師を務める時「子どもたちに、どの絵を紹介しようか」と毎回頭を悩ませるという。精緻なタッチの絵ほど惨劇をありありと伝えるが、低学年対象の授業では事前打ち合わせの段階で「子どもがおびえてしまう」と教員から難色を示されることがある。
恐怖与える可能性
ウクライナの様子が交流サイト(SNS)を通してリアルタイムで伝えられ、爆撃に逃げ惑う人々や、息絶えた兵士、市民をとらえた映像が子どもの目にもふいに飛び込んでくるようになった。安倍晋三元首相の銃撃事件では、生々しい映像がテレビでも繰り返された。残虐な映像は「うちのママが死んでしまうかも」「自分の家が壊されてしまうかも」などと、子どもに過度な恐怖を与えてしまう可能性があるという。
世界中の子どもの支援活動を行う国際NGO「セーブ・ザ・チルドレン」は、子どもと戦争について話す時のポイントを解説。状況を詳しく説明し過ぎないよう注意を促し「大人が解決するべき問題。あなたは今まで通りでいい」などと安心感を与えるような言葉がけが大切としている。日本トラウマティック・ストレス学会は惨事報道を繰り返し見ないようにしたり、親が視聴時間を制御したりするよう呼び掛ける。
「リアル伝えたい」
平和教育に取り組む人たちはどう考えるか。読み聞かせボランティアなどを行う島田市の四ツ谷恵さんは小学生には衝撃的な画像などを使わないようにしているが、「映像や写真よりも、現実はもっと悲惨な状況だっただろう。命の大切さを感じてもらうためにもリアルなものを伝えたいという思いはある」とジレンマを明かす。
県公認心理師協会の中垣真通・災害支援領域委員長は「判断力が育ってきている12~13歳になれば自分でバランスを取りながら画像と向き合うことができるようになるが、心の傷を持っていて影響を受けやすい子も少なからずいる」とし、「平和教育の趣旨から画像を一切見せないということが難しいならば、子どもの気分が悪くなった時にはすぐにフォローする態勢を整えて実施してもらえたら」と話す。
遺族会など関係団体 語り継ぐ方法模索
戦争を体験した世代が減少する中、関係団体は子どもたちに記憶を語り継いでいこうと知恵を絞っている。
浜松市遺族会は昨年3月、浜松大空襲を知る人たちの証言を収録した小学生向けDVDを制作した。授業で使うことを想定し、衝撃的な映像を避けつつ20分の映像にまとめた。
ことし6月には浜松市内の企業と開発を進めていた「AI(人工知能)語り部」をお披露目した。空襲体験者の話を事前収録してモニターに質問を投げ掛けると、体験者が実際に答えているような映像が流れるシステムだ。大石功会長(77)は「今の平和は大きな犠牲の上にあることを忘れてほしくない」と、思いをつなぐ方法を模索する。
県原水爆被害者の会もメンバーの高齢化に危機感を募らせ、それぞれの記憶をDVDに収める活動を続ける。県疾病対策課によると、本県在住の被爆者健康手帳の保持者は3月末時点で404人、平均年齢は83.6歳。メンバーの豊嶋恒之さん(82)=静岡市清水区=は「高齢化で『体が動かず、語り部を務めたくてもできない』という人は多い。活動は年々難しくなっている」と話す。
AIで継承 浜松の企業開発、「語り部」映像収録
語り部が高齢化している戦争体験の継承に、人工知能(AI)を活用する静岡県内初の試みが浜松市で進んでいる。市遺族会と市戦災遺族会、同市中区のソフトウエア開発「シルバコンパス」が連携。同区の浜松学芸中でこのほど、広島への修学旅行を控えた3年生約50人に、完成したばかりの「AI語り部」が77年前の浜松大空襲の一端を伝えた。
市戦災遺族会の語り部、野田多満子さん(84)=同区=が空襲体験を思い起こしながら話す映像を事前に収録し、その様子を会場のモニターで放映した後、AIが生徒の質問を受けつけた。
空襲の当時、野田さんは7歳だった。浜松城に近い松城町の自宅は既に焼け、身を寄せていた知人宅で夜間の大空襲に遭った。炎が燃えさかり、人々が倒れる中を走って逃げたが、母親は亡くなった。
会場で生徒がモニターに向かって質問を投げかけると、事前に収録した映像からAIが合致する回答を選び、モニターからは野田さんが答えているような映像と音声が流れた。「平和とは何ですか」との質問には「戦争がないこと。消しゴムがあれば世界中から戦争を消したい」と回答。「今の平和な時代を大切に生きて」と生徒に呼び掛けた。
戦時下の勉強について尋ねた同校の村松百合香さんは「AIも人も変わりがなく、技術の進歩はすごいと感じた。野田さんの思いを伝えたい」と話した。
AIを使った語り部システムの開発は2018年、長崎市の原爆死没者追悼平和祈念館の依頼を受け、安田晴彦社長(47)が着手した。21年秋からは地元の浜松で語り部の継承活動に力を入れている両遺族会と協力し、準備を進めた。安田社長は「語り部の高齢化は全国的な課題。浜松から対策を発信したい」と強調した。AI語り部は18日の市戦災死者慰霊祭でも発表するという。
<メモ>浜松大空襲 浜松市は太平洋戦争末期の1944年12月から45年8月の終戦まで、27回の空襲や艦砲射撃を受けた。45年6月18日未明には米軍爆撃機B29約100機が上空に飛来し、約6万5千発の焼夷(しょうい)弾を投下して市街を焼き尽くした。1157人が犠牲になり、家屋1万5千戸以上が全焼した。
体験者の現実 どこまで開示
※2022年8月5日 あなたの静岡新聞・賛否万論から抜粋
ロシアによるウクライナ侵攻は子どもたちと一緒に戦争について考える機会となっていますが、ショッキングな映像は子どもに悪影響を与えるとの指摘があります。平和教育の現場でも試行錯誤が続く中、「静岡平和資料館をつくる会」の田中明充さんに話を聞きました。(聞き手=社会部・大須賀伸江)
1944年6月生まれ。78歳。1歳になる1週間前に静岡空襲を経験した。2015年7月に、静岡市葵区の静岡平和資料センターを運営する「静岡平和資料館をつくる会」に入会。同年から学校での平和教育に取り組み、小中高生や大学生など、幅広い年代に戦禍を伝えている。
ー子どもに見せる戦災の体験画はどのように選んでいますか。
静岡平和資料館をつくる会に寄せられた体験画の中には、遺体を精緻に描いた絵が多数あります。中には描写力が高く、火に包まれた人の目つきが分かる作品や、焦げて内臓があらわになった作品もあります。絵は写真ほど現実味はないから活用しやすいですよ、遺体の写真では使えないですから。それだけに、選び方は迷います。子どもには残酷かもと予測する半面、私が伝えたいのはその残酷さなのだとの思いもあります。必ず先生に相談し、見せたい作品を事前に確認してもらっています。先生に「これは厳しいですね」と助言をいただき、私なりに線引きしています。
ーウクライナ危機の報道などの影響を感じますか。
各校に平和教育を打診して、受け入れてくれる学校を訪ねて打ち合わせをしますが、本年度は、体験画が難色を示されることが従来よりも減ったと感じています。大人たちも少なからず現地の残酷な映像に触れているため、子どもへの伝え方を巡る感覚が変化しているのでは。
ー体験画はどのように使っていますか。
小学生は3年から6年まで戦争をテーマにした教材があって、初めて触れるのは3年で習う「ちいちゃんのかげおくり」です。学習時期に合わせて静岡空襲について伝える場を設け、教科書の記述や挿絵の合間に静岡空襲の体験画を差し込んだスライドを見せています。語り部の高齢化やコロナ禍での活動リスクを考えると、当時の息遣いを伝える体験画は活用の価値が高まっていますし、データ化すればオンライン講義も可能です。教科書の「ちいちゃん」の挿絵は筆致が軟らかいので、静岡空襲の体験画との違いに、子どもは驚くかもしれません。
ー自身も空襲体験者。
私は生後11カ月でした。父は出征して不在で、母は静岡市葵区の自分の母親宅におり、おばといとこと5人暮らしでした。空襲の晩、いとことおばが先に逃げ母は祖母と避難を試みましたが、祖母は「荷物を取りに戻る」と言ったきりはぐれ、遺体は見つかりませんでした。母は猛火から逃げる際に転び、私は頭部にやけどを負いました。空襲のことを覚えてはいませんが、やけど跡が原因で戦後いじめられました。
ー体験者は残酷な現実こそ伝える価値があると思うのでは。
母は戦後長らく、テレビで空襲の再現ドラマがあると嫌がり、自分の体験を語りませんでした。手記を残したことを知ったのは死後です。6月20日の静岡空襲だけでも約2000人が亡くなり、生き残った多くの人だって、言葉にできないつらさを抱えてきました。体験者があの晩の記憶を掘り起こし、描いたことには相当な苦痛を伴ったはずで、「惨禍を伝えて」という願いが原動力だったはずです。子どもが残酷な映像に触れる機会が増えたことを受け、伝え方をより慎重にという機運が高まっているかもしれませんが、ハードルが下がって絵の選択肢が広がったという見方もできます。ウクライナ侵攻を境に大人がどこまで体験者の現実を“開示”すべきか。戦後世代に主軸が移った伝え手の意識が問われています。