激戦…白亜の塔は語る 御前埼灯台、機銃掃射で「蜂の巣」 重文指定、歴史継承の契機に

 明治政府による最初期の洋式灯台として2日付で国の重要文化財(重文)に指定された御前埼灯台(御前崎市)には太平洋戦争末期の1945年夏、米軍機の攻撃を受けて光を失った過去がある。戦後76年。当時を知る人や保存団体の関係者は重文指定を歓迎しつつ、戦争の“被災者”としての灯台を語り継ぐ必要性を訴える。

機銃掃射で大破したレンズの破片(左)。右は戦後に取り換えられた電球=7月下旬、御前崎市
機銃掃射で大破したレンズの破片(左)。右は戦後に取り換えられた電球=7月下旬、御前崎市
1945年に撮影された御前埼灯台。生々しい弾痕が見える(御前埼灯台を守る会提供)
1945年に撮影された御前埼灯台。生々しい弾痕が見える(御前埼灯台を守る会提供)
機銃掃射で大破したレンズの破片(左)。右は戦後に取り換えられた電球=7月下旬、御前崎市
1945年に撮影された御前埼灯台。生々しい弾痕が見える(御前埼灯台を守る会提供)

 「蜂の巣のようだった」。幼少期を灯台近くの実家で過ごした松林喜久次さん(84)=吉田町=は、無数の弾痕が刻まれた76年前の灯台の姿を今でも鮮明に覚えている。
 灯台は戦局が悪化した45年7月に機銃掃射を受け、国内で最初に導入されたフランス製の回転式1等閃光(せんこう)レンズが大破した。付近には終戦後も破片が散乱していたという。「毎日拾いに行った。のぞき込むと虹みたいに七色に見えるのが面白くて、子どもの遊び道具だっけね」。松林さんの義姉の久枝さん(83)=御前崎市=は振り返る。
 御前崎町史によると、御前崎は本土を空襲する米軍機の通り道だった。サイパン島を飛び立った米爆撃機B29は富士山を目標に北上。御前崎上空を通り、東西に分かれて空爆対象の都市に向かったとされる。「海岸で遊んでいた子どもが岩陰に隠れ、機銃掃射から逃れたこともあった。私も逃げ回った怖い記憶しかない」と松林さん。当時、防空監視員を務めていた松林さんの父久蔵さん(1914~91年)は自著で、42~45年に御前崎上空から侵入した米軍機は2766機だったと記している。
 久枝さんは御前埼灯台の重文指定に「一緒に年を取ってきたのだからうれしい」と笑顔を見せる一方、「ちょっとは昔のことも覚えていてほしいね」と戦争の記憶の風化を懸念する。御前埼灯台を守る会の斎藤正敏会長(73)は「灯台の魅力だけでなく“歴史”を伝えていく必要がある」と力を込める。
 
 ■灯台 各地で攻撃対象
 御前埼灯台は1945年7月24、25、28日に米軍機の機銃掃射や爆弾投下を受け、灯台のレンズだけでなく官舎や倉庫も大破した。
 海上保安庁によると、全国の灯台はいち早く敵機を発見できる位置にあるとして、42年3月、海軍省と逓信省の協定に基づいて防空監視網に組み入れられた。同庁は「灯台が攻撃目標とされた明確な理由は分からないが、戦争のための施設とされていたのは事実」(企画課)としている。
 灯台を含む航路標識は全国で140基が被災し、火災による焼失など機能を失う被害が半数近くを占めた。足摺岬灯台(高知県)や犬吠埼灯台(千葉県)などでは殉職者も相次いだ。
 

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