テーマ : 【連載】青春を生きて 歩生が夢見た卒業

【第1章】中学時代㊦ 高校受験 転移に耐え 志望校合格【青春を生きて 歩生が夢見た卒業】

 右足に人工関節を入れる手術を終え、中学3年の2018年5月に登校を再開した磐田市の寺田歩生[あゆみ]さん。3カ月後の8月に局所的に再発し、さらに12月には肺に転移した。

卒業式で記念写真に収まる(左から)寺田歩生さん、牧野しのぶ教諭、親友の秋田莉沙さん(歩生さんの両親提供)
卒業式で記念写真に収まる(左から)寺田歩生さん、牧野しのぶ教諭、親友の秋田莉沙さん(歩生さんの両親提供)

 「治療はもう放射線くらいしか…」。主治医からそう言われるような状態だった。両親はわらにもすがる思いで、県内外の病院を駆けずり回ったが、転移が複数箇所あることを理由にどこも門前払いだった。そんな中、助け舟が現れた。
 年末の東京。迷路のような地下鉄で迷い、予約時間を大幅に過ぎて到着した国立がん研究センター。嫌な顔一つせず迎えてくれた医師は「うちで見ましょう」と言ってくれた。「希望がつながり、あの時は本当にうれしかった」。父武彦さん(56)は振り返る。
 治療は、保険適用外の抗がん剤を使う、一般の病院ではできない先進的な方法だった。ただ、逆に病状を悪化させるリスクもはらんでいた。「ばくちのようなもの」。そう助言してくれた関係者もいた。
 この治療は、幸運にもうまくいった。闘病生活の終盤に歩生さんを診た浜松医科大付属病院の坂口公祥医師(45)によると、がんをコントロールできなくなってからの余命は長くて半年という。歩生さんは21年10月に他界した。同病院にかかり始めた20年2月から数えても、1年半以上残り時間を延ばせた。
 中学2、3年生の担任だった牧野しのぶ教諭(現磐田市立豊岡中)は「自分でできることは自分でやりたいという意思を感じた。学校生活は貴重だったのだと思う」と語る。
 東京での治療が始まったのは、受験勉強のラストスパートの時期。歩生さんは副作用に苦しみながら、姉2人の助けを借りたり、動画投稿サイト「ユーチューブ」を参考にしたりして、志望校の県立磐田北高を目指した。届くかどうかは微妙なラインで、中学校は、治療と学業の両立のしやすさも考え、私立高を勧めてくれた。
 「『磐田北を受けるだけ受けます』と言って受験したらどう?」。家族会議で選んだのは、挑戦。見事合格し、母や姉2人と同じ高校への切符を手にした。歩生さんは、修学旅行には行けなかったが、卒業旅行で友人と東京ディズニーランドに行ったり、家族とアーティストのライブに出かけたりした。振り返ると、病気がさらに進行した高校では高校生らしい遊びはほとんどできなかったが、中学では楽しい思い出を作ることができた。

 メモ
 
寺田歩生さんは中学1年の時、1日しか学校を休まなかった。闘病が始まった2年生では103日欠席し、1年間の授業日数の半分に及んだ。3年生の欠席は64日。2年生より大幅に減ったが、人工関節の手術や肺転移、国立がん研究センターでの治療など転機がいくつもあった。気力がなえても不思議ではないが、治ることを信じ、治療と勉強を両立した。 <続きを読む>第2章・高校時代① 苦痛からの解放 右足失う決心 迷いなく【青春を生きて 歩生が夢見た卒業】

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