政策の代償、検証と反省を 病院感染管理室長を務める緩和ケア医/岩井一也さん【アフターコロナへ 私の視点①】

 新型コロナウイルス流行から3年、社会は大きく変化した。私たちは何を失い、どんな教訓を得たのか。県内の各分野でコロナ禍に向き合ってきた人たちに振り返ってもらう。

岩井一也さん
岩井一也さん

 いま起きていることが何かおかしいと思っても、「命を守るため」と言われたら、誰も異論を挟めません。命を守る-。一見当たり前で素晴らしいことですが、使い方を間違えれば戦争をも引き起こす言葉です。この3年はある意味、戦時中と通ずる雰囲気がありました。国の大号令に皆が従い、一方向へ突き進んだからです。一方向とは、防ぎきることはできないウイルスを完全に抑え込もうとする「ゼロコロナ」の思想です。
 ウイルスが国内に入ってきた初期は理解できます。しかし数カ月後には治療法が分かりました。治療薬やワクチンもできて重症化率は下がりました。ところが私たちの日常生活に課された制限は、本質的に初期とほぼ変わらず、その効果と損失は見合っていたのか検証もされていません。
 子どもは友達と触れ合う機会を失い、高齢者は生きがいや体力を失い、労働者は仕事を失いました。それらすべてを「仕方なかった」と済ませてはいけません。ウイルスのリスクに比して、あまりにバランスを欠いた政策だったと思います。
 死因の捉え方は人によって異なります。例えば高齢者の死因の一つ、誤嚥[ごえん]性肺炎。体が弱ってそしゃくできなくなり、口内の細菌が肺に入って起きる感染症です。
 緩和ケア医の私にとっては、寿命による自然な死です。その患者は肺炎にならなくても、間もなく息を引き取ったでしょう。実は、コロナにかかって亡くなる高齢者も同様です。一方、遺族の中には「肺炎にならなければ死ななかったはず」と捉え、「職員が患者に食事介助をしたのが原因だ」と病院の責任を問うてくる人がいます。
 いくら筋違いでも病院は責任を問われたくないので、「自力でかめる高齢者にも念のため流動食を与えよう」と、責められないことを優先するようになります。では、寿命が近づきつつある高齢者から、日々の食べる楽しみを奪うのは正しいことでしょうか。本人は幸せでしょうか。皆さんはどう考えますか。それこそが、コロナが国民に突きつけた問いです。
 今を精いっぱい生きて健康寿命を全うすればいいという高齢者もいれば、延命治療をして1日でも長く生きたい人もいます。どちらを選ぶかは本人が決めること。「命を守る」という名目で面会制限を続け、患者が家族に会う権利を奪っていい理由はどこにあるでしょうか。
 感染対策は科学的根拠に基づいた上で、効率性も考慮して行うもの。例えば一律的な面会制限のほか、院内で初期に使用したフル防護服や来訪者の検温などの過剰な対策は、医療者にも患者にも負担を伴うだけです。当院は常に対策の効果と損失をてんびんに掛け、必要最小限に絞ってきました。
 国はマスク着用や行動自粛が「マナー」であると発信し、個々の道徳心に訴えかけて感染対策を徹底させましたが、米国全土を対象にした比較分析調査では、それらの対策が死亡率低下につながったとは認められていません。日本も政策の代償を多角的に検証し、反省すべきです。
 今回は、感染症を防ぎきることを使命とする専門家の価値観が、そのまま国策に反映されたと感じました。感染症の流行に限らず、災害などの非常事態は再来します。その時は一部の専門家の考えだけを重用してはいけない。誰も異論を挟めないような大義名分を持ち出して、一方向だけに突っ走ってはいけない。教育学、社会学、倫理学、文化・芸術など、幅広い分野の専門家の意見を聴き、社会的影響まで考慮して政策決定する必要があります。

 いわい・かずや 静岡市立静岡病院感染管理室長、緩和ケア内科主任科長。コロナ下でも患者と医療者の生活の質を落とさないよう努めたほか、感染死者を収容していた納体袋の使用をいち早くやめ、遺族が遺体と対面できるようにした。県新型コロナウイルス感染症対策専門家会議委員。日本感染症学会評議員。大阪府出身。57歳。

 

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