釈放 今も確定死刑囚 袴田さん再審、開始可否決定へ【最後の砦 刑事司法と再審① プロローグ】

 静かな時間が流れていく。弟と姉。珍しく「遠州の空っ風」が鳴りをひそめた12月のある日、穏やかな窓の外に時折顔を向けながら黙々と昼食を取った。

自由に街を歩き、ドライブする袴田巌さん。しかし、立場は現在も確定死刑囚だ=12月中旬、浜松市天竜区二俣町
自由に街を歩き、ドライブする袴田巌さん。しかし、立場は現在も確定死刑囚だ=12月中旬、浜松市天竜区二俣町

 袴田巌さん(86)、ひで子さん(89)。2人が同じ屋根の下で暮らすようになって、間もなく9年を迎える。
 袴田さんは現在の静岡市清水区にあったみそ製造会社の従業員だった1966年、専務一家4人を殺害したとして逮捕され、80年に死刑が確定した。無実を訴え、裁判のやり直し(再審)を求めている。
 2014年、静岡地裁で再審開始が認められた。死刑の執行停止に加え、「耐えがたいほど正義に反する状況にある」として拘置の執行も止まり、約48年ぶりに釈放された。いわば「在宅死刑囚」。自宅のある浜松市内を歩く姿は「自由」を感じさせるが、再審無罪判決を得ていない現段階では選挙権もない。
 それでも、ひで子さんにとって弟と生活できているという実感は何物にも代えがたい喜びだ。「解放してくれたことが大きい。それまではね、集会に行っても私はニコリともしなかった。たぶん、おっかない顔していた」
 
 東京高裁での差し戻し後の即時抗告審。東京高検は2日の最終意見書で、袴田さんを再び収監するよう主張した。しかし、ひで子さんは「役人だで、嫌でも職務上そう書かざるを得ないのだろうと思う。だから私は検察官の悪口を言わない」。税務署に勤務した経験があるため「役人の立場も分かる」と言う。
 第1次再審請求審は08年に最高裁で棄却されるまで27年間を費やした。「あれは放っておかれただよ」。検察官が再審開始決定に対し不服を申し立てることができるのも、未提出の証拠を開示しないことも、裁判所が請求審を先送りできることも全ては「要するに、法律がそうなっているから」と受け止める。
 再審に関する規定は刑事訴訟法に19カ条しかなく、一度も改正されたことがない。なぜか―。「時代に沿ったことをしなきゃいかんのに勇気がないのだと思う。これはおかしいぞ、と言う役人がいない。私たちが一生懸命に声を上げ、動かんものを動かすようにするしかない」。ひで子さんは、そう繰り返す。
 
 袴田さんは今、支援者の車でのドライブが日課だ。釈放直後に比べて表情が柔らかくなったとはいえ、死刑の恐怖におびえながら半世紀近く拘束されてきた影響は色濃い。疎開先だった現在の浜松市浜北区中瀬を思い浮かべたのだろうか。この日は「中瀬の次郎柿の世界…」と口にした。
 浜北方面へ走り出した車は、同市天竜区二俣町の商店街にたどり着いた。偶然にも近くで70年ほど前、後に冤罪(えんざい)が問題となる「二俣事件」が起きている。袴田さんは意識することもなく、菓子パンを頬張った。
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 袴田さんの第2次再審請求審で、東京高裁は23年3月末までに再審開始の可否を決定する方針を示した。事件から半世紀以上。「死刑囚」は「在宅」で、高裁の判断を待つ。無実を訴える者の「最後の砦(とりで)」となる再審。請求審は制度の不備を浮き彫りにしている。

「5点の衣類」血痕が焦点 差し戻し審 経緯
 袴田巌さんの差し戻し審は、事件から1年2カ月後に現場近くのみそタンクで見つかり、袴田さんの犯行着衣とされた「5点の衣類」に付いた血痕の変色具合が焦点となった。弁護団は、みそ漬け血痕の赤みが失われるメカニズムを化学的に示した鑑定書を新証拠として提出し、袴田さんの犯人性は否定されたと強調する。一方、東京高検は独自の実験を行い、約1年2カ月過ぎた試料でも血痕の周辺部分に「赤みを観察できた」と主張する。
 袴田さんは1981年に静岡地裁に再審請求を申し立てた。2008年に最高裁が袴田さんの特別抗告を棄却し、第1次の請求審が終了した。同年、後に袴田さんの保佐人に選任される姉ひで子さんが第2次を請求。静岡地裁は14年、再審開始と死刑・拘置の執行停止を決めた。東京高裁が18年、一転して再審請求を棄却したが、死刑・拘置の執行停止は維持。弁護団が特別抗告し、最高裁が20年に審理を差し戻した。
 差し戻し後の即時抗告審で東京高裁が再審開始を認め、その後に決定が確定した場合、戦後の死刑確定事件では5例目となる。県内に限れば、島田市で1954年に起きた「島田事件」に続いて2例目。再審公判に移行した先の4例は全て無罪判決を得ている。

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