旅先で見た満開の桜、2011年の忘れられない思い出【茂木健一郎のニュース探求】

 今年の東京の桜は開花した後、何日か雨が続いたこともあって、随分と長続きしたように思う。

茂木健一郎さん(撮影・佐藤優樹)
茂木健一郎さん(撮影・佐藤優樹)
青森県弘前市の弘前公園で満開となった桜を楽しむ人たち=2022年4月23日
青森県弘前市の弘前公園で満開となった桜を楽しむ人たち=2022年4月23日
2022年3月、米首都ワシントンのタイダルベイスン沿いにある桜の並木。奥はワシントン記念塔(共同)
2022年3月、米首都ワシントンのタイダルベイスン沿いにある桜の並木。奥はワシントン記念塔(共同)
茂木健一郎さん(撮影・佐藤優樹)
茂木健一郎さん(撮影・佐藤優樹)
茂木健一郎さん(撮影・佐藤優樹)
青森県弘前市の弘前公園で満開となった桜を楽しむ人たち=2022年4月23日
2022年3月、米首都ワシントンのタイダルベイスン沿いにある桜の並木。奥はワシントン記念塔(共同)
茂木健一郎さん(撮影・佐藤優樹)

 地方に数日間出張する用事があって、帰ってきたときにはもう散っているかなと思っていたら、まだ咲いていた。銀座から東京駅の八重洲口に歩きながら、こんなふうに満開が見られるなんてと、何かに間に合った気がした。
 毎年、桜が開花する頃になるとそわそわし始める。いつの頃からか、東京が全国の中でも開花が早い感じになっている。それから各地で開花し始め、桜前線が北上して、5月の連休明けくらいに北海道を抜けるまで、心の中でずっと桜のことを考えている。
 桜というと、忘れられない思い出がある。2011年3月11日、東日本大震災があった。東京も大きく揺れたし、東北から伝わってくる被害の様子に本当に心が苦しい思いだった。さまざまな予定はすべてキャンセルされて、どこにも出かけず、重苦しい日々が続いていた。
 当時から私は、週に一回は全国のどこかに移動するような生活だったが、震災で仕事がすべてなくなったために、東京に引きこもった。新聞やテレビはずっと関連のニュースで、とにかく被災地のことが気がかりで、気が休まらなかった。
 仕事で初めて東京を出たのは、震災から何週間かたった時だった。羽田空港から飛行機に乗る時、当たり前のように思っていた日常がいかに多くのことに支えられていたかに思い至った。目的地は、山口県の山間部にある街。公会堂で講演会が行われる予定だったのである。
 温泉もあるその街の穏やかな町並みを歩いた。そこには、長い年月を重ねて積み上げられてきた人々の営みがあった。温かみのある人間の生活が感じられた。ホッとした。そして、寒い時に毛布をかけてもらった人のように、ひそかに涙が出るような気持ちがした。
 被災地ではまだまだ厳しい日々が続いていた。もちろん、その街の方々もニュースに接し、いろいろとご心配されていたことだろう。だからこそ、西日本に日常が息づいていることを、改めてかけがえのないことだと感じた。
 日本列島が狭いようで広いことは、このような時にありがたい。大変な思いをしている地域がある一方で、とりあえず穏やかな日々が続く場所もある。だからこそ支え合える。その頃、被災地から西日本を含むさまざまな場所に避難している方々のニュースを耳にすることも多かったのである。
 満開の桜の木に出会ったのは、そのようなあれこれを考えながらその山間部の街を歩いていた時のことである。東京ではもうすっかり桜は散ってしまって、花見をすることも、そんな気持ちにもならないままに過ぎていた。遠く離れた山口県の街で、桜に出会って、命の奥の方が再生するような、そんなみずみずしい感覚があった。
 「ああ、ここにあった」
 私は思わず小さく声を出した。重苦しい日々の中で、ようやくささやかな春がやってきたような、そんな気持ちがこみあげた。
 桜の花が咲くと、命の温かさに心がゆるむ。小学校の入学式で桜が咲いていると、小さな命が無事ここまで育ったことの奇跡、ありがたさに喜びがあふれる。最近は開花も満開も早くなり、卒業式の際に桜を見ることも多いけれども、そこにも人生の祝祭がある。
 全国のさまざまな場所で桜を見ると、生命の営みを確認して自分もまたその土地につながったような思いがする。福島県郡山市の開成山公園で桜を見た時には、年を経た大木の風情がまるで人生の大先輩のように感じられた。青森県の弘前公園の桜は有名だが、ある時訪れるとちょうど桜の花びらがお堀に散る「花筏(はないかだ)」の季節で、ピンクの絨毯(じゅうたん)のような光景にはっと息をのんだ。
 旅先で見る桜には、遠きにありて自分のふるさとに戻ってきたような、そんな原風景がある。日本各地で見られるソメイヨシノが単一の樹に由来するクローンであることも、なじみの印象となる理由だろう。
 日本には100種類以上の桜が自生し、山の中にちらちらと見える薄朱色の花にその一端を見る。ちょうどNHKで日本の植物学の大家、高知県高岡郡佐川町出身の牧野富太郎博士をモデルにした朝ドラ『らんまん』が始まったこの春は、日本の植物の多様性に目を向ける良いタイミングだろう。
 さまざまな種類の桜があるのは素晴らしいことだが、一方で日本のどこに行っても親しみのある桜の姿が咲いていることもありがたいことだと思う。震災の年、ソメイヨシノの誕生の地ともされる東京から遠く離れた山口の地で、おなじみの満開の桜の姿に接した時の、乾いた布に水がしみこむような温かな気持ちは、きっと一生忘れられない。
 アメリカの首都、ワシントンでも毎年、日本から1912年に贈られたソメイヨシノが人々を楽しませているようだ。桜の花は、時と場所を超えて、人の心を結ぶ縁となる。人生にたくさんの桜がありますように。(茂木健一郎、隔週木曜更新)
 ☆もぎ・けんいちろう 脳科学者、ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。1962年東京都生まれ。東京大学大学院物理学専攻博士課程修了。クオリア(感覚の持つ質感)をキーワードに脳と心を研究。新聞や雑誌、テレビ、講演などで幅広く活躍している。著書に「脳とクオリア」「脳と仮想」(小林秀雄賞)など多数。

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