終戦から79年。SBSテレビのアーカイブから、戦争を、あの時代を生きた人たちの想いを伝えます。(2008年のインタビューをまとめたものです。文中敬称略)【SBSアーカイブより】
パリ五輪に沸いた2024年夏。さかのぼること約70年以上前のこと、水泳自由形の世界記録を次々と打ち出し「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた静岡県出身の日本人スイマーがいた。古橋廣之進さん。戦争に翻弄されたその水泳人生はー。
終戦から3年が経った昭和23年8月。日本の参加が叶わなかった戦後初めてとなるオリンピック(ロンドン)の水泳競技と同じ日に、東京の神宮プールで開催された日本選手権水上競技大会。自由形のその選手は、オリンピック金メダリストの記録を上回り、世界記録(参考記録)を叩き出した。そこから世界記録を作ること33回。
それが「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進だ。
オリンピックを期待された雄踏の「豆魚雷」

1928年(昭和3年)、古橋は現在の浜松市西区雄踏町に生まれた。水泳と出会ったのは小学校4年のとき。浜名湖の入り江に作られたプールが水泳部の練習場だった。
「感激しましたね。プールができて。浜名湖の沿岸に、板で囲ったプールですからね。魚は中に入ってくるわ、カキがいっぱいくっついてるわ、そんなとこでやったんですよ。だけどね結構愉快だったですよ。俺も水泳選手になるんだ、俺も選手になりたいんだって。そんな雰囲気になったんですよ」
ふんどし姿で夢中になって泳いだ少年時代。やがてその名は全国に知られることになる。1940年(昭和15年)、6年生の夏。静岡市内で開かれた県大会で古橋は100m、200m自由形の学童新記録を打ち立てた。
「そのときに『豆魚雷現る』っていうタイトルで静岡新聞が書いたんですよ。僕は自分なりになかなかいい名前をつけたもんだなと思ってましたね。豆魚雷なんてね。それから俺もオリンピック行くんだって。自分で言うのもおかしいんですけども、そのままやってたら僕は中学校でオリンピック行きましたよね。オリンピックでおそらく優勝できたと思います」
幻となったオリンピック そして悲劇がー

古橋が学童新記録をマークしたその年、東京ではオリンピックが開かれるはずだった。しかし、日中戦争の長期化を理由に政府は開催権を返上。東京オリンピックは、そして古橋少年の夢は幻のものとなった。
「こりゃひどいことになったなと。もうそれからだんだん、もちろん頭の隅っこにはオリンピックだのやれ日本一だのっていうのはありましたけどね。もうそれどころじゃなくなっちゃったんですよ」
浜松二中に進学した頃、プールの水は空襲に備える防火用水となり、もはや泳ぐためのものではなくなった。学徒動員により、軍需工場で高射砲の弾丸を削る毎日。そして、悲劇は起きた。
「3年生の時に、旋盤の機械に挟まれちゃいましたね。指を怪我しちゃったんですよ。絡まっちゃって、がりがりって機械の中入っちゃったんですよ、指が。いや、もう泳げないと思いましたよ。もう泳げない。もう指がないわけですから」
左手中指の第一関節切断。水泳選手にとって、何よりも大切な指を1本失ってしまった。指がなければ水が逃げてしまう。指は水の中でスピードを出すために絶対に必要なものだった。
やがて、戦争は終わった。日本人は皆、夢や希望を失い、ただ彷徨うだけだった。
古橋もその1人だった。
「ちょっと口じゃ喋れないほどの、何て言うのかな、心境ですよね、当時は。だから今の人に話してもわかんないし、他人に話したって全然わかんない。自分でそんなこと言うのもあれだけど、そういう意味ではいろんな体験しましたよね」
再びプールへ、そして「フジヤマのトビウオ」に

水泳の名門日本大学に進学していたものの、すっかり泳ぐことを諦めていた。そして故郷に戻ったある日のこと。失意の中の古橋を救ったのは「大学でもう一度水泳を」という母の一言だった。それからまもなく、母は急性肺炎を患い、45歳の若さでこの世を去った。
「(母は)水泳やったってともかく一番になってほしいと思うし、立派な息子になってほしいという、そういう期待を常に持ってましたね。だから僕もそれにはぜひとも応えたいと」
古橋は日大水泳部の門をたたいた。左中指のハンディを克服するため、右腕に力を入れて泳ぐ方法を考え出した。しかし、それだと体が左に曲がってしまう。右腕を回すとき、左足を思いっきり強く蹴りバランスを保つなどの改良を重ねた。
「僕ら1500mの選手は1日多いときには3万mぐらいです。朝、昼、夜と。それだけやらなきゃ世界一にはなれないんですよ」
魚になるまで泳げー。古橋はそう自分に言い聞かせながら練習に没頭した。
1948年(昭和23年)8月、日本水泳選手権(神宮プール)。時を同じくしてロンドンでは戦後初めてとなるオリンピックの水泳競技が開かれていた。1500m自由形決勝。第5コースに古橋はいた。
「やる以上は世界で一番にならないとだから。世界記録を作らないと」
旧敵国として日本の参加が認められなかったロンドンオリンピックでの優勝記録をこの大会で破ることができれば日本は世界チャンピオンになれるのだ、と。記録は18分37秒0。ロンドンオリンピックの優勝者にまさること41秒5。世界記録の誕生に日本中が熱狂した。
翌1949年(昭和24年)、日本は国際水泳連盟復帰が認められ、古橋らは全米男子屋外水上選手権大会(ロサンゼルス・オリンピックプール)に招待された。
「向こうは相手にしていないんだ。日本のプールなんて短いから記録がいいじゃねえかって。日本の時計なんて回るの遅いんだよってなんて言ってるわけ。で、この野郎、何言ってんだ、と。ともかくがんばってやっつけるよりしょうがない」
古橋は1着でゴール。
「2番に180mですよ、差は。それでみんなびっくりしちゃって。こりゃすげえやって。結局記録は発表にならないんですよ。回数を間違えたとかね、時計がおかしいとか思ってんだから向こうは。これはそう思いますよ、それだけ違うんだから」
この大会で古橋は、400m、800m、1500m自由形で、いずれも世界記録をマーク。
「フジヤマのトビウオ」として世界にその名を轟かせた。
敗戦後の日本人の心に刻まれた雄姿

その3年後、念願のオリンピックを迎えた。1952年(昭和27年)、ヘルシンキオリンピック。古橋は400m自由形決勝に挑んだ。敗戦で焼け野原となり、復興に向けて再び立ち上がろうとしているそのとき、水泳ニッポンの古橋廣之進の活躍は、日本人の誇りであり、明日を生きる希望であった。しかし結果は8位。すでに選手としてのピークは過ぎていた。
「進まないんですよ、いくらやったって。それで何とか元に戻らないかってやるんだけど駄目なんだ。僕はやれやれこれでやっと終わりか、と。もうやってることが苦痛でした。どうしようもない。愉快にできないんだもん」
古橋の最初で最後のオリンピックが終わった。もし戦争がなければ、違った水泳人生があったのかもしれない。しかし、逆境にも負けずに挑み続けたその雄姿は日本人の心に深く刻み込まれた。
引退後、古橋は日本水泳連盟会長、日本オリンピック委員会会長を歴任。日本のスポーツ界の発展に尽力した。水泳人、古橋廣之進の原点はー。
「僕らは授業が終わると本校から山崎まで歩いてきて、それで裸になってプールに入るわけです。で、終わると僕は家がすぐ近くだったから、暗くなってから家に帰ると、そういう生活だったんですよ」
古橋廣之進さんはこのインタビューの翌2009年8月、世界水泳選手権で滞在中のイタリア・ローマで亡くなりました。