
元清水エスパルスDFの平岡康裕(清水商業高出身)がセカンドキャリアに選んだのは…「ゆくゆくはエスパルスに」
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鬼頭:まずは平岡さんのプロフィールを紹介します。平岡さんは1986年生まれ、富士宮出身。清水商業高校(現清水桜が丘高校)から清水エスパルスに加入。その後、札幌、仙台、愛媛でプレーし、昨シーズンで現役引退しました。現在は、富士・富士宮をホームタウンとする東海社会人1部リーグ、岳南Fモスペリオでコーチをしています。
ヒデ:振り返ると、どんな現役生活でしたか。
平岡:こんなに長くやれるとは思ってなかったので、充実した選手生活でした。
ヒデ:富士宮からなぜ清水商業に?

平岡:自分の母親が清水の出身で、その知り合いのつてで清商の練習に参加させてもらいました。高校選手権を見ていたので、清商のイメージが強くて。
鬼頭:5月23日が誕生日で現在は37歳。どんな選手がいた世代になるんですか。
平岡:県内だと、赤星貴文(藤枝東高出身、浦和レッズ入団)や狩野健太(静岡学園高出身、横浜Fマリノス入団)。ジュビロ磐田ユースからは岡本達也ら6人がトップチームに昇格した年でした。
清商時代はひたすらヘディング練習
ヒデ:清商は練習がきつかったでしょう?平岡:もう、きつかったですね。中学の時はそんなにきつい練習をしてなかったので、高校1年で1回心が折れましたね(笑)
ヒデ:清商は何がすごかったんですか。
平岡:僕はセンターバックでした。「清商のセンターバック=ヘディングが強い」ので、それができなかったら試合に出られなかった。ひたすらヘディング練習をさせられてましたね。

清水エスパルス時代の平岡康裕選手=2014年3月
ヒデ:どのあたりでプロへの道が見えてきたんですか。
平岡:僕は遅かったですね。高3の5月とか、そのぐらいかなと思います。2年生の頃は一応県選抜には選ばれてましたが、年代別の代表 には入ってなかったので。普通に就職して、ホンダに行きたいなと思ってました。
ヒデ:プロに行けるって思ったのは?
平岡:一番最初に清水エスパルスから話が来た時に「プロの道もあるのかもしれない」と。でも、オファーをもらって実際に練習参加してみると、もう全然レベルが違いました。プロで何年できるのか、という思いが強かったですね。
ヒデ:私も大学当時、横浜フリューゲルスというチームに練習参加して、やっぱりプロってすごいなって思いました。
清水入団後は“壁”が多すぎた
鬼頭:平岡さんは2005〜07年に清水エスパルスでプレーし、08年は札幌へ。09〜15年は再び清水でプレーしました。清水ではどんなプロ生活でしたか。平岡:札幌に行くまでの3年間は、そこまで出場機会に恵まれませんでした。自分が入った年は岩下敬輔、青山直晃ら年代別の代表に入っていたライバルが同じポジションにいました。僕らの世代だけじゃなくて、試合に出場していた斉藤俊秀さんや森岡隆三さんとか、もう越えなければいけない壁が多すぎて、本当に最初は心が折れそうになりましたね。

清水エスパルス時代の平岡康裕選手=2012年10月
鬼頭:みんな代表クラスでしたからね。
平岡:それまでずっと静岡にいたので、僕としては札幌に出て、1回外の空気を吸えたことは良かったと思います。その後エスパルスに帰ってきて少しずつ出場機会が増えたのは、札幌への移籍がきっかけになったと思いますね。
ヒデ:視野も広がるし、チャンスもあるだろうってポジティブな気持ちになれますもんね。ザンギを食べて、「なまらうまいっしょ」ってね(笑)
鬼頭:2009〜15年の清水でのプレーが印象深い方は多いと思います。
平岡:帰ってきた初年度はそこまでチャンスはなかったですが、その次の年にチャンスをもらえました。試合に出ることによって自信を得ることができました。
ベガルタ仙台での7年間
ヒデ:その後、ベガルタ仙台で7年プレーしました。平岡:本当に7年間もベガルタでプレーできると思ってなかったですし、必要としてもらえて、第2の故郷になりましたね。ちょうど仙台に移籍したのが30歳の時。そこから一つまた成長できたかなという感じがありました。
ヒデ:20代から30代で、やっぱりサッカーの見え方や捉え方って変わるんですか。
平岡:僕は33、34歳ぐらいの時が一番体が動いていた感じがします。なおかつ、そこまでにいろいろな経験をさせてもらって、良いコンディションを保ちつつ、自分の経験をうまく出せたかなと思います。

ヒデ:サッカーが楽しくなってきたっていう感じの年ですか。
平岡:そうですね。仙台で初めて3バックで攻撃参加もさせてもらいました。新しいサッカーに挑戦できたので面白かったですね。あとは、ずる賢くできるようになりますよね(笑)
引退を決めたワケ
鬼頭:そして昨シーズン、愛媛FCで現役引退を決められました。何か大きな決断の理由はあったんですか。平岡:身体的にはやろうと思えばできたと思いますが、仙台をアウトになって愛媛に決まった時のオフの過ごし方と、心の持ちようが全然違ったので。やっぱりメンタル面が一番大きかったですかね。
ヒデ:何が「ポキッ」といかせたのか。「もういいかな、俺」みたいに思ったのはどの瞬間でしたか。
平岡:1年を通して自分自身に納得がいかなかったので、どの瞬間というよりかは、1年のサイクルの中で「例年と違うな」という感じがあった。それが一番大きかったかもしれないですね。
ヒデ:自身のサッカー選手人生で、一番心に残っていることは。
平岡:やっぱりタイトルを取れなかったので、悔しい思いの方が大きいですね。エスパルス時代もベガルタ時代も、全部シルバーで終わっちゃったので。そこだけが唯一の心残りです。ただ、本当に何百試合って出場できたことが自分としては誇らしいなと思います。
岳南Fモスペリオのコーチに
ヒデ:セカンドキャリアとして、地元の富士宮市の社会人チームを選択しました。コーチ業はどうですか。平岡:やっぱり難しいですね。自分がプロでやってきて当たり前のことが、やっぱり当たり前じゃない。伝える難しさもあります。
今のカテゴリーの選手はプロと一緒にやったことがない選手たちなので、僕がいろいろ伝えて、もうちょっと上のカテゴリーに選手を送り出せるような技術やメンタルをつけてあげられればいいかなと思っています。
鬼頭:リスナーから。「対戦相手としてアイスタ日本平を訪れた時の心境はどんなものでしたか」
平岡:やっぱりサポーターのつくるサンバのリズムっていうのは、アウエー側にいても、なんか乗っちゃいますよね(笑)
JFL昇格を目指して
ヒデ:清水は今、J2。どのように感じていますか。平岡:今季はいいスタートを切りましたし、粘り強く戦えているんじゃないかなと思います。内容も大事ですが、今は結果が全てなので、このまま突っ走ってほしいと思いますね。
ヒデ:今後の夢は。
平岡:今のリーグの一つ上がJFL(日本フットボールリーグ)なので、そこをチームとして目指していきます。
ヒデ:平岡さん、個人としては?
平岡:しっかりと今のコーチ業と向き合って、ゆくゆくはやっぱりエスパルスに携わることができるように頑張ります。自分が元気なところを皆さんにまた伝えていければいいと思いますし、富士・富士宮の方に試合も見に来てもらえるとありがたいです。


サッカー大好き芸人、ペナルティ・ヒデと、サッカー中継のリポーターとしても活躍する鬼頭里枝の2人がお送りする番組。Jリーグから海外サッカー、ユース世代、障がい者サッカーなど幅広くスポットを当て、サッカーを通して静岡を盛り上げます。目指すは「サッカー王国静岡の復権」です!