
【スポーツライター・望月文夫】
1992年、初の公式戦となった「ナビスコ(現ルヴァン)カップ」で幕を開けたJリーグ。そこで準優勝と好スタートを切った清水エスパルスだったが、小中高校世代で他地域を圧倒し、長くサッカー王国と呼ばれてきた地元のファン、サポーターは納得していなかった。
リーグ戦が始まった翌1993年の同大会でも準優勝。さらに同年と翌1994年のリーグ戦でも4つのステージで2度2位と存在感を見せたが、頂点を期待していた周囲は満足できず、皮肉まじりに「シルバーコレクター」と呼んだ。
続く1995年は、第1ステージにクラブ初の2桁順位(全14チーム中12位)と低迷。上位争いからも遠のき厳しい視線が注がれる中、翌1996年に新指揮官として就任したのが、アルゼンチン出身の知将オズワルド・アルディレス監督(愛称オジー)だった。
オジーが説いた土台の大切さ
オジーは、選手として出場した1978年地元開催のW杯で、司令塔として母国を大会初制覇に導いた。その後イングランドに渡って活躍し、現役時代に所属した名門トッテナムでは監督も務めた。そんなレジェンドの監督就任は、選手も地元も大きな期待を寄せた。「いったいどんな練習をするのか」。新指揮官には熱い視線が向けられたが、いざ始動してみると驚くような練習メニューはなく、ボールを止めて蹴るという基礎練習と長時間のミニゲームに多くの時間が割かれた。
「良い家を作るにはしっかりした土台が必要」。指揮官は基礎練習の必要性を記者にも説明したが、当初は「小学生でもやる基礎練習ばかり。これで勝てる?」と、選手から不安や不満の声も漏れ聞こえた。しかしその声は徐々に払しょくされていく。というのも、選手たちが自身の成長を実感し始めたからだ。

基礎練習でトラップやキックの精度が高まり、ミニゲームでは素早い判断力を習得。長時間練習ではスタミナも身につき、選手たちは無意識のうちにレベルアップしていた。ミニゲーム中には、指揮官が気になった場面でプレーを止め、大事なポイントをその場で繰り返し指導。その中で自身の成長を確信した選手は後に、「毎日ワクワクして練習場に向かった」と当時を振り返った。
練習後のオジーは、選手とクロスバーにボールを当てるゲームなどで盛り上がり、担当記者とは連日監督室でサッカー談議に花を咲かせた。指揮官と周囲との信頼関係は日に日に深まり、クラブはメディアも含めファミリーのようなムードに包まれていった。
サッカースタイルにも変化が出始めた。それまで個人技主体だったチームは、パスサッカーへと移行していく。そのベースとなる素早い判断力や展開力が練習で底上げされ、流れるようなサッカーが徐々に浸透していった。
ナビスコカップの頂点
選手もチームも指揮官の狙い通りに成長を続けたが、この年のリーグ戦は思うような結果が出なかった。するとオジーは「いま必要なのは自信を取り戻すためのタイトル獲得だ」と断言し、その年の序盤を好調に推移していたナビスコカップでの優勝を目標に掲げた。迎えた予選リーグ最終戦はホームでのジェフ市原(現千葉)戦。決勝トーナメント(準決勝)進出には3点差以上での勝利が必須だった。キックオフ直後から選手全員が走りまくって攻勢に出るという戦法で、前半10分最年長のFW長谷川健太(現名古屋監督)が先制点。そして最後まで攻め続け4-0で勝利し、見事にベスト4入りを決めた。
勢いは止まらず、準決勝でもベルマーレ平塚(現湘南)に5-0で快勝すると、決勝では頂点への道を何度も阻まれてきた因縁のヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)にPK戦の末に勝利。個の成長と一つにまとまったチームが、知将の下で自信の二文字を手に入れた瞬間だった。

アルディレス監督は1998年に退いたが、チームの土台はしっかりと築かれた。コーチとしてともに歩み指揮官を引き継いだスティーブ・ぺリマン監督が、さらに成熟させたチームを1999年に初のリーグ戦ステージ優勝に導いた。年間王者こそ逃したが、2つのステージで積み上げた勝ち点は断トツの1位だった。
そして1996年ナビスコカップ決勝メンバーに名を連ねていた伊東輝悦、安藤正裕、森岡隆三、斉藤俊秀、戸田和幸が後に日本代表入りを果たすが、その原点が知将アルディレスの存在でありクラブ初タイトル獲得による自信だったことは疑う余地がない。
【スポーツライター・望月文夫】
1958年静岡市生まれ。出版社時代に編集記者としてサッカー誌『ストライカー』を創刊。その後フリーとなり、サッカー誌『サッカーグランプリ』、スポーツ誌『ナンバー』、スポーツ新聞などにも長く執筆。テレビ局のスポーツイベント、IT企業のスポーツサイトにも参加し、サッカー、陸上を中心に取材歴は43年目に突入。