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浜松大空襲の体験談 聞いたことがありますか?

 1157人が犠牲になったとされる1945年の浜松大空襲から6月18日で77年を迎えました。「語り部」の高齢化が進み、戦争体験の継承が課題となる中、AIを活用した取り組みも始まっています。体験者への取材記事などから浜松大空襲の一端を改めて学んでみたいと思います。
 〈静岡新聞社編集局未来戦略チーム・村松響子〉

あの日から77年 遺族ら「戦争ない世界」願い強く

 浜松大空襲から77年の18日、浜松市戦災遺族会は戦災死者慰霊祭を中区で開いた。出席した空襲経験者や遺族は、今年2月から続くロシアのウクライナ侵攻にそろって言及し、戦争のない世界を願った。7月の参院選を前に、安全保障をめぐる議論にも注目している。

慰霊碑に手を合わせる浜松大空襲の経験者や遺族=18日午前、浜松市中区
慰霊碑に手を合わせる浜松大空襲の経験者や遺族=18日午前、浜松市中区
 同市中区の伊熊フジ子さん(94)は大空襲で母と4人のきょうだいを失った。自身も後を追って逃げ込むはずだった防空壕(ごう)が爆撃された。「壕の中からみんなを掘り出してリヤカーで運んだ。服を見て姉たちだと分かった。あの時の悲しさは忘れられない」。体力の衰えた今も式典に出席し、平和の発信に協力し続けている。
 「大勢の親子が引き裂かれている」。戦火にさらされているウクライナのニュースを見ると、当時の体験が重なり胸が苦しくなる。各国のリーダーたちの姿勢も「なぜもっと強く止めないのか」ともどかしく映る。参院選で各党が展開する改憲の議論にも「望まない人が動員され、無関係の市民が巻き込まれる世の中には絶対しないでほしい」と不安を募らせる。
 式典では空襲経験者の家族たちが慰霊の言葉を述べて献花したほか、平和学習に取り組む市内の西遠女子学園高、浜名高の生徒が意見発表した。
 浜名高史学部の山本景大部長(3年)はウクライナの状況に触れて「こんなにも簡単に戦争が起こるのだと感じる。私たちの世代も空襲の惨禍に目を向ける必要がある」と主張した。
〈2022.06.19 あなたの静岡新聞より〉

群を抜いて被害が大きかった 浜松大空襲

浜松 焼夷弾による空襲で焼け野原になった浜松市街地=1945年6月18日(市立中央図書館所蔵)
浜松 焼夷弾による空襲で焼け野原になった浜松市街地=1945年6月18日(市立中央図書館所蔵)
 基地や軍需工場が立地していた浜松市は、太平洋戦争中に少なくとも27回の空襲や艦砲射撃を受け、3千人超が犠牲になったとされる。
 旧日本陸軍の航空基地があり、軍需工場が集中していた浜松市は全国の中小都市では群を抜いて被害が大きかった。空襲は1944年12月13日から始まり、記録が残っているだけでも艦砲射撃を含め27回に上った。死者3000人超、家屋や工場など建物の被害も3万戸を超えた。最大の被害は45年6月18日未明の大空襲。浜松市の調査によると、約100機の米爆撃機B29から6万5000発の焼夷弾が投下され、家屋1万5000戸以上が全焼。死者は1157人だが、1717人(警察調べ)との記録もある。
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 〈2015.06.18 静岡新聞 しずおか戦後70年「轍」より〉

【体験者の記憶】焼夷弾容赦なく、一夜で焦土に 防空壕の様子鮮明

浜松大空襲のあった1945年6月18日、遠藤隆久さんが寝ていた部屋。飛び起きて学生服に着替え、防空壕へ逃げ込んだ=6月上旬、浜松市中区中沢町
浜松大空襲のあった1945年6月18日、遠藤隆久さんが寝ていた部屋。飛び起きて学生服に着替え、防空壕へ逃げ込んだ=6月上旬、浜松市中区中沢町
※2020年6月17日 静岡新聞朝刊から
 陸軍の飛行場があり、軍需工場も多かった浜松は何度も米軍の空襲に見舞われた。浜松一中(現・浜松北高)3年で動員学徒として市内の飛行機部品工場などで働いていた鈴木幹さん(91)、遠藤隆久さん(90)=いずれも浜松市中区=は「恐怖より、もはやあきらめの気持ちが強かった」と当時を思い起こす。
 45年6月18日午前1時前。最初の攻撃を受けたとされる鴨江町に住んでいた鈴木さんは「空襲警報のサイレンより、焼夷(しょうい)弾が落ちるのが先だった」と振り返った。木造家屋を容赦なく焼き払う焼夷弾。家の前の崖に掘ってあった横穴の防空壕(ごう)へ腹巻き姿のまま飛び込み、母親と妹、いとこの4人でしゃがみ込んだ。
 幅1メートル、奥行き2メートルの狭い穴の外は、ごう音とともに突風が吹き荒れ、炎がうなるように渦を巻いた。自宅は燃え上がり、火の手が路地をふさいだため、逃げてきた人々が泣き叫びながら立ち往生した。鈴木さんは防空壕の隙間から「早く(自宅が)燃え尽きて、みんなが助かってほしい」と願った。
 市街地の北、中沢地区の遠藤さんは、けたたましい空襲警報で目を覚ました。「またか」。米軍爆撃機B29の影が、いつもより低く大きく見えた。筒状の焼夷弾が空中で分裂し、中に装?(そうてん)された小さな弾薬が「花火のよう」に無数に降り注いだ。
 夜が明けると、自宅から約3キロ先の浜松駅の方まで全てが燃えたのを知った。焼け焦げた松菱百貨店を除いて建物は見えない。変わり果てた街の様子に、ぼうぜんとした。
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空襲で焦土と化した浜松市中心部。左奥が松菱百貨店の建物=1945年(浜松市立中央図書館所蔵)

 遠藤さんは戦争一色の時代を「将来の夢は軍人と言わなければならない雰囲気で、勉強どころか何もできない学生生活だった」と語る。遠藤さんは戦後、楽器関係の会社を起こし、奇跡的に戦災を免れた家に今も暮らす。周辺の光景は変わったが、庭先に掘った防空壕や焼け野原の記憶は鮮明だ。「自分の人生は戦後から始まった。戦争のない平和がどれだけありがたいことか」とかみしめる。
 ※内容、表記は掲載日時点

「AI語り部」質問にも回答 戦争体験継承へ

生徒に戦争体験を伝えるAIの「語り部」=8日、浜松市中区の浜松学芸中
生徒に戦争体験を伝えるAIの「語り部」=8日、浜松市中区の浜松学芸中
 語り部が高齢化している戦争体験の継承に、人工知能(AI)を活用する静岡県内初の試みが浜松市で進んでいる。市遺族会と市戦災遺族会、同市中区のソフトウエア開発「シルバコンパス」が連携。同区の浜松学芸中で、広島への修学旅行を控えた3年生約50人に、完成したばかりの「AI語り部」が77年前の浜松大空襲の一端を伝えた。
 市戦災遺族会の語り部、野田多満子さん(84)=同区=が空襲体験を思い起こしながら話す映像を事前に収録し、その様子を会場のモニターで放映した後、AIが生徒の質問を受けつけた。
 空襲の当時、野田さんは7歳だった。浜松城に近い松城町の自宅は既に焼け、身を寄せていた知人宅で夜間の大空襲に遭った。炎が燃えさかり、人々が倒れる中を走って逃げたが、母親は亡くなった。
 会場で生徒がモニターに向かって質問を投げかけると、事前に収録した映像からAIが合致する回答を選び、モニターからは野田さんが答えているような映像と音声が流れた。「平和とは何ですか」との質問には「戦争がないこと。消しゴムがあれば世界中から戦争を消したい」と回答。「今の平和な時代を大切に生きて」と生徒に呼び掛けた。
 戦時下の勉強について尋ねた同校の村松百合香さんは「AIも人も変わりがなく、技術の進歩はすごいと感じた。野田さんの思いを伝えたい」と話した。
 AIを使った語り部システムの開発は2018年、長崎市の原爆死没者追悼平和祈念館の依頼を受け、安田晴彦社長(47)が着手した。21年秋からは地元の浜松で語り部の継承活動に力を入れている両遺族会と協力し、準備を進めた。安田社長は「語り部の高齢化は全国的な課題。浜松から対策を発信したい」と強調した。AI語り部は18日の市戦災死者慰霊祭でも発表するという。
〈2022.06.10 あなたの静岡新聞より〉
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