焼津市歴史民俗資料館【美と快と-収蔵品物語(54)】

 1954年3月1日、米国が太平洋・ビキニ環礁で行った水爆実験で、焼津漁港所属の遠洋マグロ漁船が“死の灰”を浴びた第五福竜丸事件。焼津市の同市歴史民俗資料館は、40歳の若さで帰らぬ人となった同船無線長の久保山愛吉さんが闘病中、家族に宛てた手紙を展示している。事件から69年経過した今も核の脅威と隣り合わせの世界を生きる私たちに、核兵器のむごさを静かに訴えかける。

第五福竜丸 無線長の手紙 1954年 久保山愛吉筆 便箋縦23×横18センチ(画像の一部を加工しています)
第五福竜丸 無線長の手紙 1954年 久保山愛吉筆 便箋縦23×横18センチ(画像の一部を加工しています)
マグロの安全性を訴えるチラシ 1954年 左から縦19.5×横13.4センチ、縦17.4×横24.2センチ
マグロの安全性を訴えるチラシ 1954年 左から縦19.5×横13.4センチ、縦17.4×横24.2センチ
焼津市歴史民俗資料館
焼津市歴史民俗資料館
第五福竜丸 無線長の手紙 1954年 久保山愛吉筆 便箋縦23×横18センチ(画像の一部を加工しています)
マグロの安全性を訴えるチラシ 1954年 左から縦19.5×横13.4センチ、縦17.4×横24.2センチ
焼津市歴史民俗資料館


闘病中 家族思いつづる
 「お手紙ありがとう。元気でお父ちやんもあんしんしました (中略)はまや川へあそびに行くようになると思ひますが ながれないように (中略)おとうちやんのかへりをまつて居なさい」
 入院する都内の病院から、久保山さんが当時小学3年生の長女に宛てた手紙の一部。別の手紙には、母親の料理は残さず食べること、妹を泣かせないことなどがつづられる。
 闘病の末、9月に亡くなった久保山さんは国内初の水爆被害者として核廃絶運動の象徴的存在になった。しかし焼津に暮らす家族に病院から送った手紙からは家族の平穏を祈る優しい父親の顔が浮かび上がる。
 「『元気だから心配しないように』とくり返し書いている。まっすぐ丁寧に書かれた文字に実直な人柄がにじむ」と同館学芸員の鈴木源さんは語る。
 収蔵する手紙は26通。1985年、同館開館時に遺族から寄託された。妻の寿々さんに宛てた手紙には検査結果やマスコミへの対応、世間の風当たりを心配する様子がうかがえる。背景には地元の過酷な実情があった。第五福竜丸が取ってきた魚から放射能が検出され、水産業界に大きな打撃を与えた。事件翌年の補償金分配では乗組員など一部にしか支払われず誹謗[ひぼう]中傷が起きた。
 乗組員23人のうち生存者は2人となり、記憶の風化が進む。来年は事件から70年。「第五福竜丸事件で何が起きたのか改めて正確な史実を知り、平和や核について考える機会になる。『原水爆の被害者は、わたしを最後にしてほしい』という久保山さんの遺言は重い」と鈴木さんは話した。
販売不振に懸命措置 マグロの安全性を訴えるチラシ 1954年
 第五福竜丸が、同船の被ばくを認識する前に東京・築地の魚市場へ出荷した魚から放射能が検出されると、「原爆マグロ」という造語が生まれ、魚は販売不振に陥った。静岡県や焼津魚市場は、原爆マグロは完全に処分し、販売する魚はビキニ環礁付近で取ったものではないと記載したチラシを作成。懸命の措置を講じた。同船の他にも同環礁付近で操業していた漁船約940隻の船体から放射能が検出されると国民の不安は増大。魚離れが一層進んだ。

 焼津市歴史民俗資料館 焼津市三ケ名1550。1985年6月、市文化センター内に開館。漁業や第五福竜丸に関する資料、同船の5分の1スケールの船体模型のほか、市内遺跡からの出土品、今川、武田、徳川ら戦国大名と山城に関する資料を展示する。掲載した久保山愛吉さんが家族に宛てた手紙、マグロの安全性を訴えるチラシは常設展示している。

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