2軍戦に登板した高橋投手。当時育成選手として実戦復帰し、背番号は129だった=2024年5月、草薙球場
亜大を経て、2017年ドラフト2位で阪神入りした左腕は、度重なるけがに泣かされてきた。22年4月には左肘内側側副靱帯再建術(トミージョン手術)に踏み切り、2季連続で1軍登板なし。育成契約となり、24年7月に支配下に復帰した。我慢の日々を乗り越え、「1年間しっかり投げる」という決意を胸にスタートした9年目の今季。本来の力を存分に見せつけている。高橋投手の常葉橘中、高時代に指導した下山秀樹さん(57)=上達屋静岡工房、パフォーマンス・コーディネーター=が、「身体操作」というキーワードで、打たれにくさの実態を解説した。
―打たれにくい理由を教えてください。
「エネルギーを効率良く球に伝える、理にかなった身体操作ができているからです。身体操作のスペシャリストですね。ストレートが特別速いわけではなく、モーションに〝ズレ〟をつくれるので(打者が)タイミングをずらされるんです。下半身の粘りによって、上半身が遅れてくるので、(打者にとっては)腕が出てきた瞬間にボールが来る印象では」
―詳しく解説をお願いします。
「(自身が所属する)上達屋のメソッドなんですが、投げ方じゃなくて体の操り方の話です。ちょっと専門的な話になりますが、まず軸足に〝芯〟が入り地面反力を受けます。次に骨盤の腸骨と大腿骨がかみ合う部分で、全体重を受け止められる『かませ』と言われる角度、位置でセットします。左足の内側で『かませ』のポジションをキープすることで、上体の突っ込みを抑え、下半身に〝ため〟ができます。ここから打者方向に移動する並進運動に移る際に、打者との間合いを調整できるんです。打者を見ながら合ってるなと思ったらずらす。間合い操作は変幻自在です」
軸足に〝芯〟が入り地面反力を受ける(左は小学生のころの高橋投手)
―下半身から上半身へのエネルギー伝達の仕組みは。「『かませ』ポジションで上半身は脱力しています。ここから下半身主導で並進運動に移りますが、エネルギーを漏らさず指先に伝えるために、ピッチャープレートの幅(約60センチ)の中でモーションを完成させます。例えばフィギュアスケートのジャンプは回転半径を小さくすることで、回転速度が増しますよね。それと同様に、並進運動から正面を向くタイミングで、体が外に膨らまないようにします。腰を回すのではなく〝骨盤をずらす〟んです。右の腸骨がどいて、左の腸骨が入ってくる感覚です。遥人が中学生のころから、腸骨と仙骨の間にある仙腸関節を動かすドリルに取り組むように教えました」
かませに近いポジション。上半身が脱力し、並進運動に移る
―そこからリリースまでの流れは。「下半身は(骨盤で)回りきっているけれど、上半身は後ろに残っていて、例えるなら弓を引いた時のようなイメージです。前脚の着地と同時に、矢が放たれる瞬間のように上半身が出てきて、腕が付いてきます。腕は振るものじゃなくて、走らせるという感覚です。前脚はかかと着地。豆腐の上に前脚を乗っけるように、後ろ脚で粘ります。そこでさらに時間を稼ぎます。上半身が遅れて出てきてしなった分だけバッターから見ると刺される感じになります。さらに、狭い幅の中で投げることで打者から腕が見えにくくなるんです」
〝弓矢〟を引き、前脚が着地する瞬間。上は高校時代の高橋投手
―けがや手術後もパフォーマンスが落ちていないですね。「理にかなった身体操作をやればいいだけなので、根幹がしっかりしていればいいんです。筋力よりも、腕の走りが大事なので。そこは数値化できない〝奥義〟に近いのかも知れません。下半身の土台ができていれば、上半身は付いてくる。年齢を重ねて体力が落ちたとしても感覚があるので、40代まで投げられる(投げ方)と思ってますよ」

―中学、高校時代から取り組んできたこととは何ですか。
「この『かませ』ポジションを覚えさせるために、クイックモーションをやらせてました。クイックははまりやすいんです。筋トレはやらないし、落ちるボールも投げさせない。(当時は)落ちるボール全盛期だったんですけど、そのボールが必要になるようなレベルじゃ、上では通用しないと。ベースはストレートとカーブだよと。目先のことじゃなくて将来的に必要なことを磨くように、言いました」
左は中学時代の高橋投手。現在のモーションの基礎を築いた
―中学、高校時代の高橋投手はどんな選手でしたか。「欲がないので、しょっちゅう『僕なんか無理です』と言ってましたね。常葉橘中高の三つ年上にいた庄司隼人(広島アナリスト)のような、生きた教材が身近にいたことが、とても大きかったと思っています。全中優勝、甲子園出場、プロ入りした隼人に近づこうという目標があったことが大きかった」
庄司さん(左)、高橋投手(右)と下山さん
―亜大を経て順調に成長しましたね。「自分で自分の価値を下げようとするネガティブな一面があったので、多くのプロを輩出している亜大の(当時監督の)生田(勉)さんに託しました。厳しいところでやり抜いたあの4年間は遥人にとって貴重でしたし、ここまで(の選手に)育ててくれたのは亜細亜だと思ってます。大学3年の春ごろ『下山さん150出ました!』って遥人から電話が掛かってきて、『良かったな。プロに行けよ』『はい!』っていうやり取りが印象に残ってますね」
(聞き手 編集局ニュースセンター・結城啓子)
故郷の野球少年に夢を与える存在になった高橋投手=草薙球場、2025年12月










































































