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わたしの街から 養鰻100年の誇り・吉田町

 「日本一のウナギ産地」とかつて呼ばれた町-。大井川右岸の河口付近に位置する静岡県吉田町では、1世紀にわたり養鰻(ようまん)業の歴史が紡がれてきました。全国有数の規模だった生産量は競争の激化などが要因で縮小したものの、豊富な伏流水をぜいたくに使用した手法は現在も続きます。消費者に良質なウナギを届けようと、生産者は誇りを胸に日々汗を流しています。
 〈静岡新聞社榛原支局・相松孝暢〉

地下水で一晩「浸場」のひと手間

 8月中旬、静岡うなぎ漁協(同町片岡)の出荷場。ニョロニョロと動き、ピチピチと跳ねる生きのいいウナギを、職員が手でつかんでサイズごとに手際よく選別した。養殖方法は1年間を通して出荷できる「周年養殖」。販売額がピークを迎える夏場は多忙を極める。

生きのいいウナギをサイズごとに選別する職員ら=8月中旬、吉田町片岡の静岡うなぎ漁協
生きのいいウナギをサイズごとに選別する職員ら=8月中旬、吉田町片岡の静岡うなぎ漁協
 
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「浸場」に注ぐ地下水。出荷前のウナギをさらすことで泥臭さが抜け、身が引き締まる=8月中旬、吉田町片岡の静岡うなぎ漁協

 大井川の最下流に位置する産地の最大の特徴は、「浸場(つけば)」の存在だ。養鰻業者から集めたウナギは浸場に入れ、流水に一晩中さらす。泥臭さをなくし、身を引き締める効果がある。同漁協業務課の法月大輔課長(48)は「地下水が豊富だからこそできること。ほかの産地よりもひと手間多くかけている」と胸を張る。
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■最盛期は全国生産の26%
 吉田の養鰻業の歴史は、1922(大正11)年までさかのぼる。吉田地域養鰻八十年史(丸榛吉田うなぎ漁協)によると、始まりは「川尻養魚組合養魚場」の創設。豊富な水に加え、東京と大阪の2大消費地に鉄道でウナギを運べたことなどが、養鰻の発展に貢献した。戦時中の休業を経つつも生産量を伸ばし、68(昭和43)年には6201トン、全国の26%を占めた。
 昭和末期以降は、九州・四国といった新産地の台頭、中国や台湾からの輸入増、養殖種苗の稚魚(シラスウナギ)の不漁などにより、吉田の生産量は大きく減った。それでも、養鰻業者の“日本一”のプライドは健在だ。静岡うなぎ漁協の藁科昌利組合長(67)は「他産地に負けないように、高付加価値のいいウナギを愛情をかけて育てている」と力を込める。

面影残す 池の遺構や水くみ場

 養鰻業の最盛期には、ウナギを育てる露地の池が吉田町内の広いエリアを埋め尽くしていた。現在は業者が大幅に減り、工場が多く進出するなどして様変わりしたが、当時の面影を今に伝える場所がある。

養鰻業最盛期の吉田町。露地の養鰻池が地域を埋め尽くしていた=1969年(吉田地域養鰻八十年史より)
養鰻業最盛期の吉田町。露地の養鰻池が地域を埋め尽くしていた=1969年(吉田地域養鰻八十年史より)
 
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廃業後もそのまま残っている養鰻池=8月下旬、吉田町住吉

 住宅地の中にある、コンクリートや石垣で囲われたプールのような構造物。廃業後もそのままとなっている養鰻池だ。宅地化に伴い池の“遺構”は近年、減少傾向にあり、現在はわずかしか残っていない。
 JAハイナン旧川尻支店の敷地内にある水くみ場は、かつて養鰻のため使われていた自噴の井戸。同支店が2008年に開店する際にJAが無料で水をくめる場所として整備した。「きれいでおいしい」と評判でボトルを抱えた地域住民がひっきりなしに訪れる人気スポットになっている。

文化支える採捕人 真冬の稚魚漁

 ​養殖に使うニホンウナギの稚魚「シラスウナギ」の漁は、県内では12月1日から翌年4月までの漁期中、沿岸部で行われる。吉田町では日没後、吉田漁港などで採捕人が漁に励んでいる。

シラスウナギ漁を行う採捕人。水面を見つめ、水中灯に引き寄せられてくる稚魚を探している=2020年12月、吉田町の吉田漁港
シラスウナギ漁を行う採捕人。水面を見つめ、水中灯に引き寄せられてくる稚魚を探している=2020年12月、吉田町の吉田漁港
 
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網で捕獲した透明なシラスウナギ=2020年12月、吉田町の吉田漁港

 「よし、来た」。昨年12月、シラスウナギが水中灯に引き寄せられ泳いでくると、岸壁に座り水面を凝視していた同町しらす鰻採捕組合の落合利春組合長(66)は声を上げた。すかさず網を入れ、体長5センチほどの透明な稚魚を丁寧に捕獲した。
 県内には約20の採捕団体がある。吉田の採捕組合には約80人が所属し、掛川市以東では最多だ。落合組合長は「寒さの中で忍耐力のいる仕事。ウナギの文化を支えているという気概で頑張っている」と語る。
地域再生大賞