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特攻艇「海龍」か 下田沖で発見

 旧日本海軍の特攻潜水艇「海龍」とみられる船体が下田市沖の海底で見つかりました。太平洋戦争末期、下田には海龍の基地があり、周辺では過去にも海龍が見つかっています。そもそも海龍とはどんな潜水艇だったのでしょう? 2015年の発見時の新聞記事とあわせて振り返ってみましょう。

水深35メートルで撮影 海洋調査会社

 旧日本海軍の2人乗り特攻潜水艇「海龍(かいりゅう)」とみられる船体が下田市の恵比須島の南西約800メートルの海底で見つかった。地元の海洋調査会社「ウインディーネットワーク」が9日までに明らかにした。太平洋戦争末期、下田には米軍の本土上陸作戦を想定した海龍の基地があり、周辺では1999年と2015年にも海龍が見つかっている。

下田市の恵比須島の南西約800メートルの海底で新たに見つかった旧日本海軍の特攻潜水艇「海龍」とみられる物体(ウインディーネットワーク提供)
下田市の恵比須島の南西約800メートルの海底で新たに見つかった旧日本海軍の特攻潜水艇「海龍」とみられる物体(ウインディーネットワーク提供)
 見つかった船体の長さは約17メートル、幅約1メートルで水深約35メートルに沈んでいた。艇首は下田港とは逆の南東方向を向いていた。下田の基地には海龍計十数艇の配備計画があったとされ、15年に海龍を発見した同社が調査を続けていた。ことし7月上旬に音響ソナーで発見し、水中ドローンで撮影した。
 地元住民らによると下田の基地にあった海龍の一部は陸上で解体され、残りは爆装を解いたうえで海中処分された。戦後に資源として引き揚げられたものもあった。終戦直前に神奈川・横須賀から沼津の基地に向かった数艇のうち1艇が須崎付近の海岸で座礁し動けなくなり行方不明となっていて、2015年にはこの1艇との関連が指摘された。
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 元海軍少尉の徳山昭秀さん(94)=同市白浜=は20年ほど前、下田の基地にあった海龍の部隊「第16嵐部隊」所属の男性(故人)と手紙のやり取りをしていた。1945年9月末に下田港で米海軍の海龍接収に直接立ち会ったこの男性の手紙(99年9月23日付)には、「乗り込んでみたアメリカさんは、よくもまあこんな小さな潜航艇をつくったものだと、びっくりしたり呆れたりしていた」(原文のまま)などとある。

 同社は9日までに自社のサイト<https://www.3d-survey.jp/kairyu/>で、水中ドローンの映像を公開した。杉本憲一社長(74)は「実物がいまも訴える戦争の歴史を伝えていきたい」と語った。
 〈2021.8.10 あなたの静岡新聞〉

特攻潜水艇「海龍」とは

 腹部に魚雷2本を備えることができる旧日本海軍の2人乗り小型潜水艇。太平洋戦争末期に局地防衛用の潜水艇として建造された。2人乗りで全長17.3メートル、直径1.4メートル。開発時には腹部に備えたロケット魚雷2本の発射を目的にしていたが、戦局が悪化した終戦直前には、船首に600キロの爆薬を詰めて敵艦などに体当たりする本土防衛用の特攻兵器としても想定されていた。ただ、実戦は一度もなかった。搭乗員の大半は10代後半の「甲種飛行予科練習生」で、当時飛行機の不足でやむなく潜水艇に乗った。

元海軍少尉の青山陸朗さんが記した旧海軍の特攻兵器「海龍」の構造(海軍兵学校第74期の卒業50周年記念誌「江鷹」より)
元海軍少尉の青山陸朗さんが記した旧海軍の特攻兵器「海龍」の構造(海軍兵学校第74期の卒業50周年記念誌「江鷹」より)

  ■海龍「とんでもない兵器」 海軍兵学校OB徳山さん
 「まさか座礁した海龍が見つかるとは」―。5日(2015年8月5、下田港沖で旧海軍の特攻兵器「海龍」とみられる特殊潜水艇が発見されたことに、海軍兵学校OBで元海軍少尉の徳山昭秀さん(88)=下田市白浜=は感慨深げに話した。
  徳山さんと同じ1944年3月に海軍兵学校を卒業した第74期生が、卒業50周年記念としてまとめた「江鷹」には、戦後親交が深かった北海道出身の元海軍少尉青山陸朗さん(故人)による以下のような記述がある。
  「横須賀で訓練を受けていたわれわれに44年6月下旬、戦闘配置がなされた。私は沼津にあった江の浦基地の15突撃隊4菊隊を命ぜられ、海路、海龍を回航することになった。しかし、100海里にも及ぶ長距離の回航は海龍にとって未経験の航海だった。主に夜間航行で潮流と戦いながら、何とか、我が艇は下田に入港した。別の1艇は伊豆の須崎付近の海岸に座礁して動けなくなった」(中略)
  徳山さんによると、「艇長講習員」だった青山さんは計4隻を率いて横須賀を出発、うち1隻が須崎で座礁したという。青山さんが目的地の江の浦基地に到着したのは、終戦前日だった。
  99年9月に下田港で海龍が発見された際、青山さんは、海上自衛隊から座礁した海龍の位置について尋ねられていたという。その際には詳しい場所は分からずじまいだった。
  関係者によると、当時の海龍は爆薬を装填(そうてん)したまま横須賀から太平洋岸の前線基地に配備されるケースが多かったという。
  徳山さんによると、海龍は2人乗りだが、肩車するような格好で搭乗する、非常に窮屈な構造だった。徳山さんは「戦時中海龍のことを知り、とんでもない兵器だと思った。座礁した乗組員の生死は不明だが、無念だったろう」と話した。
 〈2015.8.6 静岡新聞朝刊〉

終戦直後 浅瀬に放置

 下田市にあった柿崎国民学校4年のとき玉音放送を聞いた川端元之さん(82)=同市須崎=は、直後に身の回りで起きた変化を忘れられない。軍神と仰がれ、「いつも机の上に置いて勉強しなさい」と言われた旧日本海軍の山本五十六連合艦隊司令長官のブロマイドは、担任から「すぐに焼くように」と指示された。「たった一夜で全てが真逆になった。あんな経験は人生で一度きりだ」と振り返る。

伊豆半島に特攻基地が集中していたことを示す地図。〇の中に潜水艇が描かれているのが海龍
伊豆半島に特攻基地が集中していたことを示す地図。〇の中に潜水艇が描かれているのが海龍
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 川端さんは当時、下田港に配備されていた13隻の特攻潜水艇「海龍」についても鮮烈な記憶をとどめた。
  戦時中、港に入る海龍を見ながら、「1隻、2隻…」と数えていた川端さんに対し、担任は「近くにスパイがいるかもしれない。よしなさい」と叱った。格納用の穴は、草などで偽装した鉄板で厳重に覆われていた。
  しかし敗戦で、港の海龍は、沖合に海没処分されるわけでもなく、浅瀬などに数年間も放って置かれ、人々は見向きもしなくなった。朝鮮動乱で鉄が高騰したことで引き上げられ、スクラップとして売られていった。
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 「本土邀撃(ようげき)特攻関係綴」(防衛省防衛研究所収蔵)によれば、伊豆半島には、海龍のほか人間魚雷「回天」、モーターボート型の特攻艇「震洋」の基地が10カ所以上もあった。「首都決戦の最前線」とされた半島全体では当時、海龍だけでも数十隻以上が戦闘配置された。
  専門家は「終戦直後の連合国軍総司令部(GHQ)の監視の目は、すぐには地方に行き届かなかった。下田での海龍はその例で、伊豆の海には海龍などがまだ眠っている」と指摘する。
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 伊豆周辺では熱海市の網代湾で1978年、横須賀港から回航中に空襲を受けて撃沈されたとみられる海龍1隻が引き上げられ、現在「大和ミュージアム」(広島県呉市)で展示中。
 
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広島県呉市の「大和ミュージアム」で展示中の、1978年に熱海市網代沖で引き揚げられた「海龍」(同ミュージアム提供)

  また下田港では、99年に外防波堤付近で戦後投棄されたとみられる1隻が、2015年にも戦争末期に座礁して沈没したとみられる海龍が発見された。
  座礁した海龍と同じ「第15突撃隊4菊隊」に所属していた浦了さん(89)=福岡市=は「終戦のときには全員が『これで死ななくて済む』と思った。特攻戦術の愚かさを伝える歴史的価値があると思う。いつか引き揚げてほしい」と話す。
  15年に海龍を発見し、今月下旬には長崎・五島沖で伊58の調査も担う下田市の海洋調査会社ウィンディーネットワークの杉本憲一社長(70)は「『実物』が訴える戦争の悲惨さや矛盾を追求したい」と抱負を述べた。
 〈2017.8.16 静岡新聞朝刊「かくて果つ 潜水艦と海没処分」④完 海龍なお海底に〉

元隊員の生々しい記憶

  敵艦に体当たりして自爆する旧海軍の特攻潜水艇「海龍」。下田港沖で70年ぶりに発見され(※2015年)、当時二十歳前後の若者だった元乗組員らは戦争当時の記憶を呼び戻している。一方、戦争を知らない世代にとっては、終戦記念日を前に戦争についてあらためて考える契機となった。

「第15突撃隊4菊隊」の隊員と写真に納まる浦了さん(左から2人目)。全員が二十歳前後だった=1945年7月ごろ(浦さん提供)
「第15突撃隊4菊隊」の隊員と写真に納まる浦了さん(左から2人目)。全員が二十歳前後だった=1945年7月ごろ(浦さん提供)
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 「江の浦基地」(沼津市)にあった「第15突撃隊4菊隊」。見つかった海龍はこの部隊に所属し、1945年8月14日に下田市の須崎付近で座礁したとの見方が強まっている。
  「小指の先をカミソリで切って、上官に『血書志願』を届けた」
  同隊に所属していた元1等飛行兵曹の浦了さん(87)=福岡市中央区=は、海龍の発見で生々しい記憶を呼び起こした1人だ。
  「甲種飛行予科練習生」として、「三重海軍航空隊奈良分遣隊」(奈良県天理市)に所属。地上で基礎訓練を続けていたある日、突然、練習生に招集がかかった。雨戸を閉め切った薄暗い武道場だった。
  「おまえたちが乗る飛行機はもうなくなった」と告げられた。海龍や人間魚雷「回天」など3種類の海軍の特攻兵器の説明があった。長男などは除外され、「◎(強く希望)」「○(乗ってもよい)」「白紙(乗りたくない)」の3段階で意思を確認させられた。
  飛行機乗りを夢見ていた10代後半の若者たち。「中には飛行機にこだわりをみせる者もいた。半分程度は白紙だったと思う」という浦さん。自身は「◎」を付け、宿舎に戻ってから同期と「特攻を志願します」との血書志願を作成、上司に届けると、涙を流して喜ばれた。
  その後浦さんはいくつかの部隊を経て、4菊隊で任務に就いた。
  「当時は『一億火の玉』と言われ、逃げる者などいなかった」
  元海軍少尉の徳山昭秀さん(88)=下田市白浜=は戦時中の日本の雰囲気を説明する。
  「ただの戦死なら1階級、特攻なら2階級特進。『敵の上陸でどうせ死ぬなら…』と思った若者も多くいた」
  広島・江田島の「海軍兵学校」の同期には3菊隊の元隊員がいるが他界した。70年の節目の発見に因縁めいたものを感じる徳山さんは「当時18歳だった仲間は年々減っている。少しでも戦争体験を語り継ぎたい」と話す。
 〈2015.8.12 静岡新聞夕刊「海龍 海底に眠る(上)〉
地域再生大賞