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【3月に国際シンポジウム】弥生時代の農耕文化伝える「登呂遺跡」ってどんな遺跡?

 昨年、発見から80年を迎えた登呂遺跡。第二次世界大戦中の1943年、軍需工場建設の際に見つかり、1947年に本格的な発掘調査が始まりました。「日本考古学の金字塔」と呼ばれ、国の特別史跡に指定されています。今年3月には韓国の研究者らを招き、国際シンポジウムが開かれます。登呂遺跡の研究の歩みを振り返りました。

日韓共同研究へ 稲作伝来の歴史に迫る

 国指定特別史跡「登呂遺跡」の学術的価値や利活用策を探る日韓初の国際シンポジウムが2024年3月、静岡市駿河区の市立登呂博物館で開かれることが23日までに、市などへの取材で分かった。市や静岡大の研究者が中心となって開催。登呂遺跡より古く、韓国で本格的な農耕文化が始まった遺跡の一つとされる「松菊里(しょうきくり、ソングンニ)遺跡」の調査研究に携わる同国の大学教授らを招き、稲作伝来の起源や発展の歴史に迫る。23年に発見80年を迎えた登呂遺跡を共同研究し、国外に発信する好機とする。

松菊里遺跡との連携に向けて協議が進んでいる登呂遺跡=2023年12月中旬、静岡市駿河区(静岡新聞社ヘリ「ジェリコ1号」から)
松菊里遺跡との連携に向けて協議が進んでいる登呂遺跡=2023年12月中旬、静岡市駿河区(静岡新聞社ヘリ「ジェリコ1号」から)
 市や静岡大によると、登呂遺跡に関する国際シンポは初めて。松菊里遺跡は静岡県が友好協定を結ぶ忠清南道の扶余郡に位置し、登呂が1~5世紀ごろであるのに対して、松菊里は紀元前9~4世紀ごろの遺跡で、稲や雑穀が多数出土している。
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松菊里遺跡/韓国で本格的に農耕文化が始まったとされる松菊里遺跡(点線で囲んだあたりが遺跡の範囲)=韓国忠清南道扶余郡(韓国伝統文化大提供)

 国際シンポには、日本側から登呂遺跡の調査研究を行っている静岡大の篠原和大教授や静岡市の学芸員、韓国側から韓国伝統文化大学校(忠清南道扶余郡)の李基星[イキソン]教授や現地の行政関係者が参加する。併せて両国の考古学者らによる国際研究会も開き、日韓の農耕文化研究の最新の動向について意見交換する予定。
 静岡大と韓国伝統文化大は農耕文化の研究に関する交流協定を結ぶ方向でも調整している。17年、同博物館で両学生の交流会「考古学学生会議」が開催された時から協定締結の話は出ていたが、コロナ禍が重なり中断。韓国伝統文化大側からの誘いを受け、篠原教授が23年3月に渡韓し、協議を再開させた。その後、両自治体の担当者も加わり本格的な交流に向けた話し合いを進める中で、国際シンポ開催の機運が高まった。
 篠原教授は「それぞれの国で、本格的な農耕文化の始まりとして代表的な遺跡同士が交流することで、登呂の価値が高められることが大きな意義になる。農耕文化の起源や過程はまだ分かっていないことが多く、共同研究で明らかになることも多いと期待している」と強調する。
 (社会部・五十嵐美央)

 登呂遺跡 弥生時代の水田跡が日本で初めて確認された遺跡。稲作文化が約2千年前の弥生時代後期にあったことを科学的に裏付けた。第2次世界大戦中に軍需工場建設に伴い、現在の静岡市駿河区登呂で見つかった。大量の土器や木製品が出土し、居住跡も発見された。戦後考古学の先駆けとなる遺跡であると評価され、1952年、弥生時代の遺跡として初めて国の特別史跡に指定された。
 松菊里遺跡 韓国・忠清南道扶余郡にある、紀元前9~4世紀ごろの遺跡。炭化米や穀物、石鎌といった農耕を想起させる出土品のほか、石棺墓や青銅器なども確認されており、階級社会や職人集団の存在があったと考えられている。同遺跡から出土した土器や住居跡は松菊里式土器、松菊里型住居と呼ばれ、韓国における青銅器時代中期の考古学研究の基礎となった。
〈あなたの静岡新聞 2023.12.24〉

韓国にも同時代の遺跡 両国の大学生が保存・活用を議論

 ※2017年12月24日 静岡新聞朝刊より

共同宣言を行った日韓の学生たち=静岡市駿河区の登呂博物館
共同宣言を行った日韓の学生たち=静岡市駿河区の登呂博物館
 考古学を学ぶ日韓両国の大学生による交流事業「考古学学生会議」が23日、静岡市駿河区の登呂博物館で開かれた。静岡大と韓国伝統文化大学校の学生計14人が両国の農耕文化を伝える遺跡を紹介し、保存活用法などをテーマに意見を交わした。
 静岡大の学生は弥生時代後期の登呂遺跡の整備について、発掘調査に基づき、発見された遺構と同じ位置に同規模で集落や水田を復元したと説明した。学生たちによる稲作の実験を紹介し、「農耕集落の実態を原寸大で再現しながら研究ができる」と話した。
 韓国伝統文化大学校の学生は、日本の弥生時代前期の遺跡にあたる地元の松菊里遺跡を紹介した。2025年に整備は完了するが、「徹底的な考古学調査に基づいた再現がなされてほしい」と意見を述べ、観光資源としての活用を重視した「過度な復元」は避けるべきと主張した。
 学生を代表し、大村陸さんと朴燦壹(パクチャンイル)さんが共同宣言を行い、「二つの遺跡に農耕文化の営みをたどることができ、両国の歴史を知る上で欠くことができないと認識した。過去を知り、今を見詰めることで未来を紡いでいく」と読み上げた。
 同大学校は県と友好協定を締結している忠清南道にある国立大学で、事業は県と県考古学協会でつくる実行委員会が主催した。

近年の研究は? 復元水田で静岡大が米作り再現

 ※2023年1月5日 静岡新聞朝刊より

復元した農具を手に実験考古学の成果と課題を考える篠原和大教授(中央)と学生=2022年12月、静岡市駿河区の登呂遺跡
復元した農具を手に実験考古学の成果と課題を考える篠原和大教授(中央)と学生=2022年12月、静岡市駿河区の登呂遺跡
 住居と水田跡が一体的に発見され、弥生時代の農耕文化を現代に伝えた登呂遺跡(静岡市駿河区)。1999~2003年には静岡市が「平成の再発掘調査」を行い、水田が小区画に分割されていたことなど新たな成果が得られた。これを機に登呂の人々はどのような方法で耕作していたのか、農耕の実像に迫る研究が再発掘調査で復元された水田で進められている。
 「泥よけが付いているくわの方が使いやすかった」-。22年12月、静岡大人文社会科学部の篠原和大教授(55)と同大考古学研究室の学生たちが、木製の4種類のくわを使い比べた実験を振り返りながら意見を交わした。4種類のくわは登呂遺跡や近隣遺跡の出土品を基に復元したものだ。
 研究室は09年から、市と連携して「実験考古学」と呼ばれる調査を進めている。コメの収量を上げるため、どんな方法で稲作を営んでいたのか。復元された水田で実際に田植えや収穫に手作業で取り組むことで、その解明を目指す。「水田が復元されたおかげで再現度の高い研究ができる」と篠原教授。佐賀県の吉野ケ里遺跡では水田跡は見つかっておらず、登呂遺跡だからこそできる独自の研究ともいえる。
 これまでは4種類のくわの復元や、それぞれのくわはどのような耕作を行う時に用いられていたかを調査。その成果を基に20年度から、くわの種類による労働時間の違いや、田んぼを耕した場合と耕さなかった場合とで収量がどう変化するかなどを考察している。
 データの精度にまだ課題は残るものの、使うくわによって10平方メートル当たりの作業効率が最大1・2倍違うことや、耕しても耕さなくても約100人いたとされる登呂ムラの人々を養えるだけの収量があったとみられることなどが推察された。
 3年の伊藤歴さん(21)は「現代は機械や鉄製の農具を使うので、木製農具で本当に作業できるのか疑問だった。実際に使ってみたら耕すことができ、当時の人々の知恵を感じた」と感心する。
 同大は22年10月、弥生時代の農耕の実像にさらに迫るため、他大学とも連携し「登呂農耕文化研究所」を立ち上げた。考古学に農学や土壌学といった自然科学分野の手法を取り入れる。弥生時代の水田や農耕はどういうものだったのか、登呂遺跡を舞台にモデル構築するのが最終目標だ。
 「農耕の起源が分かる韓国の遺跡や現地の大学とも連携したい」。試行錯誤する所長の篠原教授。稲作に挑んだ弥生人の姿が重なった。

 <メモ>静岡大の篠原和大教授をはじめ全国の考古学者らは、2020年に「水田稲作技術比較研究プロジェクト」を立ち上げた。各地にある弥生、古墳時代の復元水田13カ所で水稲栽培をする実験などを通じ、両時代の稲作の実態に迫る研究を進める。取り組みや成果を報告し合い、研究を発展させる狙い。昨年末に横浜市で開いたシンポジウムでは、登呂遺跡で水田を復元した経緯や、田んぼに飛来する鳥を捕獲する「水田狩猟」を行っていた可能性を探る研究などが報告された。

石斧の切れ味、進化した? 伐採実験で縄文時代と比較

 ※2007年8月18日 静岡新聞朝刊より

弥生式石斧でカシを切る学生グループ=静岡市駿河区の登呂遺跡
弥生式石斧でカシを切る学生グループ=静岡市駿河区の登呂遺跡
 縄文時代から弥生時代にかけて発達した斧(おの)の改良効果などを研究している首都大東京と静岡大の考古学実習生による石斧と鉄斧を使った伐採実験が十七日、静岡市駿河区の登呂遺跡内で始まった。二十四日までにカシ二十五本を伐採して、作業終了までの時間や斧を振るった回数を計測し、改良による効果を検証する。
 実験で使うのは、縄文時代と弥生時代の石斧、鉄斧の三種類。縄文時代の石斧は柄が曲がり、刃となる石をひもで結びつけて使う。弥生式石斧は木彫り技術の発展を受け、柄の先端に開けた穴に石をはめ込んで固定できるようになった。鉄斧は弥生中期に登場し、同遺跡で鉄で加工したとみられる木材が多数見つかっている。
 同日は首都大生十二人が交代で長さ七十センチの柄の先端に幅十七センチ、厚さ六センチの石をはめた弥生時代の石斧を二十六分間振るい、千七百六十二回目で直径約二十センチのカシの立ち木を倒した。
 縄文時代、主に伐採されていた軟らかい栗の木と比べると、カシは約三倍の時間と手間がかかることが分かった。首都大の山田昌久教授は「硬いカシや登呂遺跡に残っている大木などは弥生時代の石斧でなければうまく切り出せない。細く軟らかい木だけではなく、太くて硬い木を切り出せるようになったことで、当時の人々の住居感覚が変化した」と分析する。
 期間中に静岡大生も実験に加わり、二十日には小学生の伐採体験も予定している。 
地域再生大賞