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最古のレシピ見つかる パン祖・江川太郎左衛門ってどんな人?

 反射炉を建設し大砲の鋳造を進めた、韮山代官の江川太郎左衛門英龍。韮山反射炉は世界遺産登録され、観光地としてもにぎわっています。他にも、日本で初めてパンを作った「パン祖」としても有名です。先日、江川英龍が残したとされる最古のパンレシピが見つかったそうです。改めてどんな人が調べてみると、日本の鎖国時代に外国への意識が高かったことがうかがえました。

日本最古 パンのレシピ発見 味は現代風?

 江戸時代後期に現在の伊豆の国市で日本初のパンを焼き、「パン祖」と呼ばれる韮山代官江川太郎左衛門英龍(坦庵、1801~55年)が書き残したレシピが新たに見つかった。これまでは1842年のレシピが最古だったが、今回見つかったのはその1年前のもの。英龍の関連資料を保管する「江川文庫」(同市)の橋本敬之学芸員(70)は「新たな名物としたい」と意気込む。

江川太郎左衛門英龍が書き残したレシピが記されたメモ
江川太郎左衛門英龍が書き残したレシピが記されたメモ
 レシピは昨年、橋本さんが文献の整理中に発見し、材料や分量が記されていた。「スセースブロート」「ハンネコック」という名のパンや、現代のカステラに似た菓子パン2種類の作り方が記載されていた。橋本さんは「英龍の母・安藤久(ひさ)がカステラを焼くのがうまく、カステラを知った上で海外の文献でパンを学び、自分で作ろうと思ったのではないか」と推測する。
 橋本さんは、函南町でパンの製造・販売を手がけ、42年のレシピで作られた「パン祖のパン」を完成させた「石渡食品」の石渡浩二社長(71)に復元を依頼した。石渡さんによると、「スセースブロート」はドイツパンの製法が基になっていて、コショウや塩、イースト菌の代わりに甘酒を使用していた。小麦は「麦」としか書かれていない。コショウは使ったとは書いてあるが細かい分量の記載はなく、作るのは苦労したという。
 元々英龍が最初に焼いたのは兵糧用の硬いパンと伝わっていたが、石渡社長が試行錯誤して完成したパンはふっくらしていて柔らかく、現代のものに近い味わいだった。石渡さんによると、42年のレシピのパンは保存が利き、日陰干ししたらさらに長く保存できるものだったが、41年のものは腐りやすくて保存には適さないパンだという。「兵糧用としては使えなくて、改善に励んでいたのではないか」と思いを巡らす。
 石渡さんは今年から計4種類のパンを三島市、長泉町の同社のパン屋で販売を始めた。「スセースブロート」はベーコンとチーズ、バターを加え、食べやすいようにアレンジした。
 橋本さんは「行政とも連携して、将来的にはパンの聖地として盛り上げたい」と見据える。

〈2023.4.12 あなたの静岡新聞〉

江川太郎左衛門ってこんな人

 パン祖・坦庵(たんなん)さんは江戸時代の終わりごろに活やくした人です。本名は江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)。1801年(享和元年)、現在の伊豆の国市韮山で生まれました。

江戸湾(現在の東京湾)に造られた「台場」の絵図(「台場」の絵図は公益財団法人江川文庫蔵)
江戸湾(現在の東京湾)に造られた「台場」の絵図(「台場」の絵図は公益財団法人江川文庫蔵)
  江川家は平安時代末ごろから伊豆に住んでいた武士で、江戸時代になってからは代々、幕府の役職「韮山代官」を受け継いでいました。代官とは今で言う知事のようなものです。

  ■鎖国の時代
  英龍も1835年に父の跡を継いで代官となり、伊豆や駿河、相模、甲斐などにある幕府の領地を治める仕事を担当しました。
  英龍が代官となったころ、日本の沿岸には外国の船がたびたび現れ、燃料の補給や貿易を求めるようになっていました。幕府は外国との付き合いを制限する「鎖国」をしていたので、やって来た船を追い払うことにしていましたが、大砲などの武器は外国に比べ大きく劣っていました。

  ■お台場つくる
 英龍は西洋の事情に詳しい学者たちから話を聴き、危機感を持ちます。まず、外国との戦いに備えて西洋の優れた大砲の技術を学び、東京の品川沖に砲台を造るよう幕府に提言し、実現しました。この場所が今は観光名所になっているです。また、韮山反射炉という施設を建設して鉄製の大砲を製造しようとしました。パンは保存用の食料として、英龍が外国のレシピを基に日本で初めて作らせたと言われています。

〈2013.02.03 YOMOっとしずおかより〉

最大の功績 「反射炉」の仕組みは?

 反射炉は、金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉。内部がドーム状になった「炉体部」とれんが積みの煙突がセットになっている。

韮山反射炉
韮山反射炉
  鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要で、石炭などを単純に燃やしただけでは温度が足りない。そこで、燃料を燃やして発生した熱や炎をドームの天井で反射させて一点に集中することで温度を上げ、問題点を解決した。
  反射炉の特徴となっている高い煙突は、石炭を燃焼させるために必要な大量の酸素を供給するために不可欠だった。燃焼によって温められた空気が煙突を通って勢い良く上昇することで、炉体部に新たな空気を取り込むことができるようになっている。
  また、稼働していた頃の韮山反射炉は、現存している反射炉本体の周囲に炭置き小屋や鍛冶小屋、水車を使って大砲の砲身の内側をくりぬく作業をする錐台(すいだい)小屋などさまざまな施設が点在し、大砲の一貫した生産が可能な製砲工場となっていた。

〈2013.8.22 静岡新聞朝刊「韮山反射炉 世界遺産へ期待」より〉

反射炉、パン以外にも…「前へならえ」も発祥

 整列時の号令「前へならえ」や「気をつけ」の始まりの地とされる伊豆の国市の国指定重要文化財「江川邸」で1日(※2019年8月)、家族や友人らとの「前へならえ」の様子を写真撮影するイベントが始まった。31日まで。

  市などによると、幕末の韮山代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)が江川邸の「枡形(ますがた)」と呼ばれる広場で農兵の訓練を行った際に「前へならえ」などの号令を使用したのが始まりとされる。江川家の資料を保管する江川文庫(同市)には、訓練時に農兵を指揮する隊長が手に持って読み上げた「生兵教練号令詞」など資料が残っている。
  初日はオープニングイベントを行い、市立韮山中の生徒や地元住民ら約100人が写真撮影に参加。秋山和葉さん(2年)の号令で「気をつけ」や「前へならえ」、「回れ右」などを行った。秋山さんは「登下校で毎日江川邸の前を通るが、始まりの地というのは初めて知った。号令は緊張するが楽しい」と話した。
〈2019.8.2 静岡新聞朝刊〉
地域再生大賞