「国策」と富士川(4)強制連行(下)伝承機運、山梨に芽生え

 「班長が訓示をたれたり、みんなに『ハイ』と言わせたりしていた。訓示は朝鮮語で、意味はわからなかったそうだ。はじめはそろいの作業衣だったが、その後、作業衣の支給もなくなったとみえ、勝手な服装になっていった」

戦前に柿本ダム(山梨県南部町)の工事現場にあった「飯場」と呼ばれる朝鮮人労働者の作業員宿舎。洗濯物が見える(金浩さん提供)
戦前に柿本ダム(山梨県南部町)の工事現場にあった「飯場」と呼ばれる朝鮮人労働者の作業員宿舎。洗濯物が見える(金浩さん提供)
終戦までの日軽金と富士川の関係略史
終戦までの日軽金と富士川の関係略史
戦前に柿本ダム(山梨県南部町)の工事現場にあった「飯場」と呼ばれる朝鮮人労働者の作業員宿舎。洗濯物が見える(金浩さん提供)
終戦までの日軽金と富士川の関係略史

 1976年に刊行された『富士川の変貌と住民』(静岡地理教育研究会編)では、地元住民が18~23歳ぐらいの朝鮮人約200人が「挺身(ていしん)隊」として工事に入っていった39(昭和14)年ごろの様子を証言している。記述について金浩(キムホ)さん(68)=甲府市=の89年10月の論文「日本軽金属(株)による富士川水電工事と朝鮮人労働者動員(39~41年)」には「被強制連行者であると思われる」と記されている。
 富士川の支流・佐野川で43年4月に工事が始まった柿本ダム(山梨県南部町)。
 終戦時、資材や労働力不足のため当初予定の3分1の高さで工事中断したこのダム堤体の直下には、朝鮮人労働者たちが使ったコンクリート製の釜や風呂、建物の土台、洗濯場とみられる跡などが散在し、茶わんや湯飲みなどの残骸がいまも地面に散らばる。終戦直前の突貫工事のために寝泊まりした「飯場」と呼ばれる作業員宿舎の様子が垣間見える。辺りはこの時期湿気が多く、ヒルも多い。
 地元では強制連行を含む朝鮮人労働者の存在について語る雰囲気はあまりない。
 同町教育委員会が2017年4月に発行した小学生向けの社会科副読本『わたしたちの南部町』。地元のプラスチック工場のルポなど町内の官民を問わない協力で出来上がった154ページある冊子だが、朝鮮人労働者については触れられていない。町教委関係者は、「佐野川発電所の奥にバラックがいっぱいあったと聞くが、見たわけでもない。知る人ぞ知る話であり、はっきりしないことは書けない」と困惑する。
 一方、戦後75年を前に山梨県内でも朝鮮人労働者について語り継ぐ機運も芽生える。
 栄国民学校(現在の南部町立栄小)の教師だった渡辺修孝さん(98)=同町=が当時担任した朝鮮人労働者の娘との交流を記したエッセーを基にした演劇「富士川物語」が、同県内のアマチュアグループにより昨夏以降町内などで公演されている。渡辺さんは「朝鮮人だからということではなく、印象に残った児童のことを書いた」と振り返った。
 渡辺さんは富士川の河川環境について深く憂えている一人。静岡県側でサクラエビ不漁との関係が指摘されている富士川水系の濁りについて「戦後復興期に次々とブナ林を伐採し代わりにスギなどを植えたのが一因だ。山の土がもろく崩れやすくなり、雨後ずっと濁りが引かない。憤りを感じている」と語気を強める。
 長年、朝鮮人強制連行の実態を研究する金さんは、当時を知る地元住民は極めて貴重になっていることから「日軽金は社史にも一切掲載せず、戦後全く明らかにしてこなかった関係史料を開示すべきだ」と訴える。
 日軽金広報室は「当社は工事発注元であり、作業員の出身を知り得る立場になかった」と取材に答えた。(「サクラエビ異変」取材班)

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