【時評】習近平思想の翻訳出版 典型的な遠交近攻の発想(楊海英/静岡大教授)

楊海英氏
楊海英氏

 中国は今、習近平共産党総書記の著作集を世界各国語に翻訳する国家プロジェクトを進めている。その背景と狙いは以下の通りである。
 まず、習総書記は万事、建国の父・毛沢東氏を模範として仰いでいる。毛氏は自らの著作内の要点を分かりやすく分類し、「毛沢東語録」として公開した。毛語録の外国語への翻訳と出版は1966年10月から中国政府によって実施された。半年もたたないうちに日本語と英語をはじめ、24カ国語に訳され、50億冊も印刷された。当時の世界人口は30数億人だったので、平均して1人1.5冊保有していたことになり、「聖書」と「コーラン」を凌駕[りょうが]していた。
 外国語に訳された毛語録はさまざまな衝突を惹起[じゃっき]した。「中国は世界革命のセンターだ」「毛主席は世界革命の指導者だ」「中国は地球を管理しなければならない」などと書いてあったからだ。それだけでなく、実際に中国は東南アジア諸国のゲリラを支援し、南米各国の共産主義武装組織に対し資金と道義的援助を惜しまなかった。毛語録は他国の内政に干渉する理論的な武器だったのである。
 習総書記は毛氏以上に自身の思想を熱心に対外的に宣伝しようとし、同国が推進する政治経済構想の「一帯一路」の一環として翻訳出版に着手している。中国の報道によると、2023年6月からスタートした作業チームによるアフガニスタンやパキスタン、韓国、モンゴル、それにギリシャやアルバニアなど20カ国語への置き換えは完成したという。ほとんどが「一帯一路」構想に参加し、経済的にも対中依存を強めている国々である。
 次に、習総書記が著作内で掲げている思想の中身に注目してみよう。対外関係で習総書記は特にパレスチナの建国支持と中東諸国に対する経済的援助を今後も続けると強調している。一見、イスラム世界に対する理解と友誼[ゆうぎ]のように映るが、実際は典型的な遠交近攻の発想である。それは、国内では、イスラム教徒のウイグル人に対してジェノサイドだと批判されるくらいの弾圧を強めながら、対外的にはイスラム諸国の指導者を買収する戦略である。中国マネーで潤っているイスラム諸国も当然、ウイグル人抑圧を見て見ぬふりする。
 習総書記の師たる毛沢東氏が積極的に革命思想を輸出していた時代は東西冷戦期だったので、中国もその隙間を利用して“漁夫の利”を得ていた。今や、中国そのものが世界共通の脅威となりつつあるので、習総書記の「思想」を学ぶ者はどれほど現れるのだろうか。
(楊海英/静岡大教授)

 やん・はいいん 1964年、内モンゴル出身。日本名は大野旭(おおの・あきら)。総合研究大学院大博士課程修了。専門は歴史人類学。著書に「墓標なき草原」(第14回司馬遼太郎賞)「チベットに舞う日本刀―モンゴル騎兵の現代史」など。

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