ゾウの花子を追う㊦ 再び静岡市、丸子川べりのアイドルに たくさんの人の支えでパラグアイへ旅立つ【NEXT特捜隊】

 北海道から静岡市に移住、焼津市小浜(おばま)を経て再び静岡市に戻り、ついには南米パラグアイへ旅立ったという花子(⇒ここまでの経緯は へ)。出国前はどこでどのように過ごしていたのだろうか。

ゾウの花子=1979年8月、静岡市広野(現・同市駿河区広野、鷲巣さん提供)
ゾウの花子=1979年8月、静岡市広野(現・同市駿河区広野、鷲巣さん提供)
水浴びする花子(鷲巣さん提供)
水浴びする花子(鷲巣さん提供)
ゾウの花子=1979年8月、静岡市広野(現・同市駿河区広野、鷲巣さん提供)
水浴びする花子(鷲巣さん提供)


 ※記事の最後に花子の写真スライドショーがあります

 静岡市駿河区下川原の鷲巣茂男さん(76)が、当時の様子を記録した写真を静岡新聞社NEXT特捜隊に寄せてくれた。
 撮影したのは1979年8月、静岡市広野(現・同市駿河区広野)。花子は当時、丸子川にかかる橋のたもとで暮らしていたという。当時は花子の他に2頭の子ゾウも一緒で、3頭一緒に柵の中にいる様子も写っている。足を折り曲げたまま水浴びする花子や、鼻を伸ばして地域住民と触れ合う子ゾウの姿もある。

 
地域住民と触れ合うゾウ(鷲巣さん提供)
 

 取材を通じて、花子の静岡市での暮らしやパラグアイ行きを支えた女性が現在も静岡市内に住んでいることが分かった。


静岡では子ゾウとともに暮らした

 女性は静岡市在住のMさん。花子の支援団体「動物愛護花子の会」の会長を務めた。花子が焼津で暮らしていたころ、剥製家の信田修治郎さんがゾウ舎周囲の雑草を刈り取って餌として与えていたが、雑草が徐々になくなってきたことなどから花子の移住を検討していたという。そのころ、信田さんと知り合ったMさんが、知人から借り受けた土地を信田さんに提供した。

 
花子と2頭の子ゾウが暮らしたゾウ舎=1979年8月、静岡市広野(現・同市駿河区広野)
 

 花子が広野に移住したのは1978年ごろ。14歳のころだった。もとは畑だった野原に、地元の人が持ち寄った材木でゾウ舎を手作りした。Mさんは当時を振り返り「困ったことがあったら、それぞれの技術を持ち寄ってたくさんの人が助けてくれた」と笑顔を見せた。
 当時、花子に温暖なパラグアイで過ごしてもらおうと、市民による募金活動「愛の一円募金」が静岡県内を含め、日本各地で行われた。Mさんは「動物愛護花子の会」を立ち上げ、パラグアイに花子を送るためのサポートをした。
 Mさんによると、ゾウ舎の横に置いた水槽には、花子の元を訪れた市民らから浄財が集まり、パラグアイへの渡航費用の一助になったという。
 花子とともに暮らしていた子ゾウは、アフリカゾウの「ヒロ」と「シュウベイ」。Mさんも詳しい経緯は分からないとのことだったが、一頭で寂しい思いをしている花子に一緒に過ごす仲間を作ってあげようと、信田さんが連れてきたという。


温暖な地を求めパラグアイへ

 1980年3月、羽田からニューヨーク、ペルーの首都・リマなどを経由しパラグアイに到着。首都アスンシオンの動物園や、サマニエゴ国防大臣(当時)が所有する牧場などで暮らしたという。一緒にパラグアイに渡ったヒロとシュウベイがゾウ舎から逃げ出したというエピソードもあった。現地の若者が林に逃げ込んだ2頭を誘導し、事なきを得たという。

 
パラグアイに渡った直後の3頭=1980年(Mさん提供)
 

 花子に同行したMさんの娘は「花子は甘いものが大好きで、パラグアイではサトウキビを食べて喜んでいた」と懐かしむ。花子のために土地や食べ物を提供してくれた人も多く、今でもその感動を覚えているという。「広野にいた時も、パラグアイでも花子はたくさんの人に囲まれていた」と話す。

 
サマニエゴ大臣と触れ合うゾウ=1980年、パラグアイ(Mさん提供)
 

 パラグアイでの花子の様子を探る中、取材の進展を気に掛けた読者からNEXT特捜隊に、東京動物専門学校(千葉県)の北村健一校長(77)が花子について何か知っているかもしれないという情報が届いた。
 北村校長は2002~04年、北海道の円山動物園で園長を務め、当時話に聞いた花子について調べてきたという。北村校長によると、花子の骨格標本は今もパラグアイのアスンシオン国立大獣医学部に所蔵されているはず、ということだった。
 同大に問い合わせたところ、返信が。花子の骨格標本の写真をメールで送付してくれた。四足歩行で立つ姿が再現されている。健康なゾウの骨格標本と比較すると、クル病によって関節が曲がっている花子の足の様子が分かる。

 
花子の骨格標本(アスンシオン国立大獣医学部提供)
 
健康なアジアゾウの骨格標本(北村校長提供)
 

 花子は、パラグアイに移住して1年ほどで死んでしまったという。北村校長によると、17歳で生涯を閉じた花子は「ゾウとしては短命」。しかし取材を通じて、花子はたくさんの温かい人々に囲まれて過ごしていたという事実が鮮やかによみがえってきた。花子の一生は幸せなものであっただろうか。私はそう信じたい。

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