人口減の町に再び元気を 名将蔦監督キャラも一役 攻めダルマ、生誕百年【スクランブル】
三方を山に囲まれた徳島県三好市の池田地区。かつてここから甲子園に現れた高校野球チームが全国を熱狂させた。金属バットの快音が鳴りやまぬ破壊的な攻撃。今年は県立池田高校の「やまびこ打線」生みの親、甲子園を3度制覇した故蔦文也監督の生誕100年。「攻めダルマ」の異名を持つ名将の記憶が人口減の課題を抱える町に再び元気の種をまこうとしている。
JR阿波池田駅に列車が接近すると池田高校の校歌が駅メロでホームに流れる。観光列車には蔦監督をイメージしたゆるキャラ「つたはーん」がお出迎え。駅前には1974年選抜大会を部員11人で準優勝した「さわやかイレブン」にちなむ屋号のホテルが立つ。2001年に77歳で亡くなった蔦さんは今なお町に存在感を漂わせている。
「黒い物でも先生に白と言われたら白だった」。全国優勝した1982年夏の甲子園で「恐怖の9番打者」と呼ばれた山口博史さん(59)は監督の指導スタイルをこう表現した。ファンに愛された人懐っこい笑顔とは裏腹に、練習では絶対的な厳しさを貫き通した。
長男の泰見さん(73)は「朝4時に目を覚まして布団の中で野球に関するメモを書いていた」と、豪快そうに見えて実は細かい性格だったと回想する。練習前にたった1人でグラウンドを整備する姿を見た部員は「先生のためにという雰囲気になった」(山口さん)。
チームを飛躍させたのは合理的で柔軟な思考だった。猛打の基盤をつくった筋力トレーニング、当時タブー視されていた運動中の給水、メッシュの軽いユニホーム。当時の部長だった故白川進さんは著書で「好奇心の強い吸収力の旺盛な人」と評している。
蔦さんの口癖に「わしから野球と酒をのけたら何も残らん」があった。大酒を飲んでは愚痴をこぼすこともあったというが、そこに人間くささも感じられる。祖父の負の一面も併せ描いたドキュメンタリー映画を作った映画監督の蔦哲一朗さん(39)は「人間の器は大きかった」と孫の目からの思いに実感を込めた。
池田地区の人口は80年の約2万1千人に比べ今年1月は約1万1千人とほぼ半減。野球部OBで阿波池田商工会議所議員の松端範人さん(54)は「昔は働く場が多く人口もあった。またチームが甲子園に行けば、町は元気になる」と期待する。
丘の上にある学校グラウンドで部員が練習に励む。浜口照夫部長(33)は「選手五十数人のうち半数以上が県外から。OBのコーチや親から勧められて」と“蔦野球”に思いを寄せる人がいると言う。「つたはーん」のテーマソングの一節に「どこか懐かしい 今も輝いて いつも愛されて」とある。輝きの向こうには甲子園がある。
自身も高校野球部員だった金誠・札幌大教授(スポーツ史、スポーツ文化論)の話 池田高校を率いた蔦監督は団塊世代にとって「父」世代であり、団塊ジュニア世代には「おじいちゃん」監督として人々の目に映った。高校野球がメディアとともに「国民的行事」として転化していく中で、経済的発展を遂げる日本社会が求める父性と「強さ」が、蔦監督の風貌とイメージにマッチしたのではないだろうか。
× ×
池田高校野球部 1947年に発足。社会科教諭でもあった蔦文也監督に率いられ、71年夏に甲子園初出場。74年春と79年夏に準優勝した。82年夏は畠山準選手(のち南海など)、翌年春は水野雄仁選手(のち巨人)の力のあるエースと強力打線がかみ合って連覇、86年春も頂点に。蔦監督後は2014年春を最後に甲子園から遠ざかっている。甲子園出場は春8度、夏9度。