あの日、忘れない わたしの震災エピソード【NEXT特捜隊】

 2011年3月11日に発生した東日本大震災。あの日、私たちは大きな不安に襲われました。かけがえのない命の重さを改めて感じさせられました。静岡新聞社など全国の地方新聞社でつくる「ジャーナリズム・オンデマンド(JOD)パートナーシップ」が、震災の教訓を次代につなぐため企画した「#311jp」プロジェクト。みなさんから寄せられた震災エピソードを紹介します。(NEXT特捜隊)

母と共に生き、ことし10歳を迎えた子ども
母と共に生き、ことし10歳を迎えた子ども


■岩手県盛岡市・主婦(39)■難病のわが子、10歳に
 あの日。生きる意味を見いだせない私は、生後1カ月の子どもを抱きしめ、思った。「良かった、この子と一緒に死ねるんだ」
難しい病を抱えて生まれたわが子。新生児集中治療室(NICU)をやっと出て在宅生活へ向け、私と共に入院生活することになった。でも、2歳か3歳までしか生きられないと告げられた。
「死ぬために生きるということ?」「この子は何のために生まれてきたの?」「こんなにかわいい顔は、最後にどんな顔をするんだろう」。不安と絶望の中、子供との入院生活が始まった。
 あの日。いつか飲めるようになるかもしれない母乳をパックに搾り冷凍する準備をしていた。ものすごい音と大きな揺れ。私は急いでわが子を抱き上げ、きつく抱きしめて守ろうとした。足を大きく広げないと立っていられず、窓は割れんばかりにきしみ、病院は崩れ落ちると思った。
 恐怖に包まれたと同時に、ほっとした自分がいた。「この子と一緒に死ねるんだ」
 沿岸の悲惨な状況を知ったのは翌日の新聞だった。私が死ねると思ったあの時、2、3年どころか年老いるまで将来を全く疑うこともなかったであろう多くの命が、一度に奪われた。それは、全ての人の明日は保証されない、という忘れがちな現実を私に突きつけた。
 元気に生まれてもいつまで生きられるか分からない。今日という日が来なかった人がたくさんいる。誰もが死ぬために生きるんじゃなく、死ぬまで生きるんだ。そう思えた。
 あれから10年。生きることをかみしめたあの日の事を思い出す。
 2、3年しか生きられない。そう言われたわが子はことし1月20日に満10歳に。今、生きている―。その事を大切に、その日まで生きていく。




 

■沼津市・後藤愛実さん(25)■自分用の防災バッグ準備
 中学校を卒業し、高校生活に向けて期待で胸いっぱいだったあの日。自宅で本棚を整理中、突然グラっと揺れ、本が数冊、降ってきました。身近な物を怖いと思う瞬間は人生で初めてでした。
 高齢の祖父母がいたため、余震に備えて家族で高台の避難場所近くの駐車場まで車で逃げることに。当時の私は、防災バッグを用意しておらず、何を持ち出せば良いか分かりませんでした。30分で小遣いや着替え、毛布や写真アルバムをそろえて車に乗りました。事前に防災バッグを用意していたら良かったと思いました。
 今は自分用の防災バッグを準備し、市販の防災セットに加え、必要と思う物を詰めています。季節の変わり目に蚊取り線香やカイロを詰め替えるなど、見直しもしています。寝る時はこの防災バッグを近くに置くようにしています。

 
季節ごとに防災バッグの中身を見直すという後藤愛実さん

 

■伊東市・特別養護老人ホームうさみの園 稲葉知章施設長(73)■利用者不安 歌で和らげ
 新幹線や電車が止まり、デイサービス利用者のご家族の帰宅が難しい状況になりました。ご家族の帰宅を確認するまで、利用者に施設で待機してもらいました。
 情報収集のためにつけたテレビからは甚大な被害の映像。利用者の不安を和らげようと、職員の山本芳明さんたちが、なじみのある伊東音頭や城ケ崎ブルースを流しました。利用者のご家族は、タクシーを乗り継ぐなどして通常より2時間遅れで帰宅できたようです。
 その後、宮城県から転居した方が、施設を利用したこともありました。伊東市や県の指導もあり、防災食や発電機などの備蓄を充実させ、近隣施設と災害協定も結びました。伊東市は伊豆半島東方沖の地震の影響を度々受けますが、今後も防災の感覚を鈍らせずにいたいと思います。

 
CDを手に、震災当日を振り返る職員の山本芳明さん(左)=伊東市のうさみの園

 

 ■焼津市・会社員 増田悟己さん(54)■常に備え 自宅に専用倉庫
 私はあの日、出張で宇都宮にいました。突如グラッときて、それが徐々に増幅。すぐ机の下に。大勢の人が既に屋外へ避難していました。避難した駐車場の車は地震で大きく揺れて、盗難防止の警告音があちこちで鳴り響いていました。天井が落ちている建物も見掛けました。
 街なかは停電。スマホが唯一の情報源でした。電話は通じず家族の安否確認はメールでした。充電器、乾電池を確保したくても周辺のコンビニには全くありませんでした。
 電車が止まっていたので静岡に帰れず、暗い中でホテルを探し回りました。5~6軒目でやっと泊まることができました。かなりの人が同じ境遇だったと思います。翌日も新幹線は全て止まっていたので、鈍行とタクシーを乗り継ぎ、何とか家に帰り着きました。
 以来、今日まで災害への備えを常に心掛けています。自宅には防災用具、備品の専用倉庫を設置。7日分の食料と発電機、アウトドアグッズなどを入れています。しかし、「災いは忘れた頃にやってくるもの」。この機に家族で再確認します。

 
自宅に備えた防災専用倉庫。家族で中身を再確認する

 

■吉田町・放課後児童クラブ支援員 大石恵子さん(66)■落ち着き対処を 資格取る
 県立中央図書館で職員として働いていました。あのとき、ゆっくりと建物全体が左右に揺れました。「机の下に潜って」と声を掛けたものの、本が数冊落ちた程度の状況で、指示に従ってくれた来館者は皆無でした。図書館ではこれまで、来館者参加型の防災訓練を行ってきましたが、参加者は数人でした。
 あまりに長く「地震、地震」と言われ続けてきて、静岡県民はそれに慣れてしまっているのかもしれません。
 これではいけない。まずは自分の意識から変えよう。心が動いた時がトライする時。
 何かが起きても、物事に落ち着いて対処できるよう、甲種防火管理者と災害ボランティアコーディネーターの資格を取りました。朝から夕方までのみっちりの講義で図上訓練などに挑戦し、有意義な時間を過ごしました。図書館で、消防署員を招いての救急救命講習の実施も提案しました。
 定年後、今の仕事に就いてからも、地域のイベント時に防災コーナーに寄るなどして、最新情報を集めるようにしています。

 
災害時に地域の力になれるよう、取得した災害ボランティアコーディネーターの認定証

 

■仙台市・自営業 兵藤忠彦さん(46)■自粛ブームぶっ飛ばす
 当時、宮城県村田町で「DCTMダイチャレ東北ミーティング」という、自動車のタイムアタックイベントを開いていました。震災後に全国の「自粛ブーム」を見て、今こそ経済的な盛り上がりが必要と思いました。「ここは被災地から自粛をぶっ飛ばすべきじゃないか?」とスタッフと相談。「俺たちは走る!5月22日開催!」とイベントをぶち上げました。
 とにかく来られる人だけでいいから来てほしい、と参加者募集してみたらエントリー45台、北は青森から西は滋賀・京都まで全国各地から過去最高の台数が集まりました。中には、原発事故で避難していたドライバーが、避難先のいわきのホテルから参戦してくれた例すらありました。
 まだ余震による二次被災も心配される中、発電機や有事に参加者へ配れる非常食まで準備。当時は雨だったものの無事にイベント終了。 閉会式では西日本のモータースポーツイベントで集められた寄せ書きが並んだ日章旗が、西の参加者から贈られ、大いに力づけられました。

 
閉会式では西日本で集められた寄せ書きが贈られた

 

■仙台市・児童福祉施設職員の女性(46)■気丈に振る舞う子ども
 仕事中に震災に遭い、3歳と8歳の子どもをすぐには迎えに行けませんでした。午後4時ごろ、保育園に到着した際は余震による危険回避のため、わが子は屋上に避難し、体に雪が積もっていました。必死に明るく励ます先生たちに守られていました。
 その後、小学校に行くと、全身ずぶ濡れの、津波から命からがら逃げてきた荒浜地区の方達がとにかく高い場所へと階段にあふれていました。最上階のホールに子どもたちは集められ、2年生の我が子も友だちと笑っていましたが、私の姿を見つけるとみるみる泣き顔になり、抱きついてわんわん泣き出しました。大きな揺れで机の下に潜り、泣き出す友だちに「だいじょうぶだよ。だいじょうぶだよ。しっかり机につかまろう」と声をかけ、迎えを待つ間も「楽しい歌を歌っていたら、時間が早く過ぎて早くお迎えの時間が来るよ」と、歌いながらみんなを励ましていたと先生から聞きました。私を見つけた途端に泣きじゃくった息子は「ほんとはすごくこわかったのに、すごくすごく頑張ったんだなぁ」と胸が潰れる思いで涙が止まりませんでした。
 自宅は津波規制により戻れず、避難所(学校)に避難しました。津波から逃げた泥まみれのまま、廊下で横になっている方達など、人で溢れていました。水の流れないトイレにプールから水を運び、通路を確保し、ろうそくで照らし、備蓄食品を分配し…。同じように被災している先生方が、本当に支えてくださいました。
また、学校の非常用水を求めて集まった人たちに、野球のスポーツ少年団の子どもたちがポンプで水を汲み上げて配り、中学生も非常食を配り、プールの水を運んだりとすごく頑張っていました。子どもたちの頑張りにとても感動しました。
そんな子どもたちに「早くしろ。まだか」などの罵声を浴びせていた大人が少なからずいた事には、同じ大人としてとても恥ずかしく腹立たしい気持ちになったことも忘れられません。

 

■磐田市 主婦 藤田静子さん(79)■南海地震思い出す
 テレビを見て、津波のすごさに驚きでした。 我が家も海岸から1キロほどの場所にあるので、いつ来てもおかしくないと言われている南海地震を心配します。
 昭和19年12月7日に起きた地震。3才の時にあっています。 私は3歳。母は臨月で私のことは手を取ることさえできず、道路にはいつくばっていた。 家は今のように基礎がしっかりしていないので、束石がずれて、バタバタ倒れた。 驚きで泣けなかった。
 夕方近くに保育所に行っていた姉が死体で帰って来ました。 父親は軍隊で、大井航空隊におりましたので、連絡が取れたのか、隊員とサイドカーで、来たことを覚えています。1週間後の15日に弟が生まれました。
 母は、娘を亡くしての出産でした。 赤ん坊の弟をだいて、防空壕にかけこんだことも忘れられません。 弟と私は離ればなれに預けられました。今思い出して涙が出るけれど、その時はなかなかったと思います。他人の家で生きること気を使っていたんだと思います。

 

■静岡市駿河区60代主婦■復興道半ば、実感
 親戚が 岩手県に住んでおり、当日連絡がとれなくて安否確認の連絡しましたが、なかなかわからず、心配した事を覚えています。幸いにも無事がわかり、ほっとしましたが、たくさんの方が亡くなったり、行方不明だと知り、心が裂けそうでした。
 震災後岩手県に行きましたが、まだまだ 復興には 時間がかかると思いました。未だに進んでいないところがあるので。国の予算で人々の生活が補償されることが 遅いです。

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