
元ジュビロ磐田の松森亮さんとペナルティ・ヒデが“市立船橋トーク”!「自分で限界作るな」折れない心を育てた高校時代
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鬼頭:松森さんのキャリアを紹介します。1977年生まれ、千葉県出身の46歳。市立船橋高校では、1994年度に全国高校サッカー選手権大会で優勝。市立船橋を初めて選手権優勝に導いたメンバーの1人です。
ヒデ:僕の代は選手権の決勝で負けてしまいました。そこから数年経って、松森さんが2年生の時に、あの帝京高校に決勝で5-0で勝った。強かったなあ。
鬼頭:松森さんは高校卒業後、ジュビロ磐田に加入し、1997年に現役引退。ジュビロ磐田の広報や運営の担当として活躍しました。現在は株式会社W.O.Eの代表取締役として、スポーツブランディングの仕事をしています。
「市船に入って帝京倒したい」を実現
鬼頭:松森さんはいつ頃からサッカーを。松森:当時は小学校4年生からしかチームに入れなかったので、その頃からです。でも、遊びではもちろん、近所の幼なじみの子たちとずっとサッカーをしていました。
鬼頭:なぜ高校は市船に?
松森:小学生の時に高田昌明さん(元ヴィッセル神戸、元静岡FC監督)らがいた市船の全国選手権を見たことです。準決勝で帝京に負けた試合です。

ヒデ:覚えていますよ。準決勝で帝京に1-2で負けたんですよね。夜の国立競技場をめちゃくちゃ覚えている。
松森:あれを見て感動して「市船に入って帝京を倒したい」と思いました。
ヒデ:サクセスストーリーじゃないですか。ちゃんと描いた通りのビジョンで夢を達成されたんですね。
1994年度全国高校選手権で優勝
鬼頭:松森さんが入った時の市船はどんなチームでしたか。松森:走る、蹴る、戦う、というような感じでした。
ヒデ:すごいでしょ。走る、蹴る、戦う、です。技術とかじゃないんです。でも、自分たちの代以降、徐々に変わってきてはいました。「それだけじゃ駄目なんだ」ということを、監督がおそらく気づいたんじゃないですかね。
松森:清水エスパルスの秋葉忠宏監督が3年生の時、僕は1年生でした。
ヒデ:黄金時代の幕開けです。私の代は何となく前フリみたいな感じだったんですよ。ようやくインターハイ優勝して、選手権も出るようになって。千葉の中で常連校みたいになったのは松森さんの代ぐらいからですよね。
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鬼頭:松森さんが2年生の時に初めて全国選手権優勝ですもんね。3年生には元ジュビロ磐田の茶野隆行さん、1年生には元清水エスパルスの北嶋秀朗さんもいました。選手権決勝はどんな試合でしたか?
松森:チームが波に乗っている状態だったので、あっという間の90分でした。
ヒデ:本当に優勝するべくして優勝したような、戦術がバッチリはまった感じでしたよね。
松森:あとはセットプレー。「セットプレー合宿」というのもありました。学校の合宿所に泊まって、セットプレーを特に入念に。
「俺たち、何部?」
ヒデ:市船に入部した時に、こう言っちゃなんだけど、当時は別名「辞めさせる合宿」というのがあった。めちゃくちゃきつかったよね。松森:走り、食べるという感じでしたね。
ヒデ:「俺ら何部だろう?」と思うぐらいでしたよ。
鬼頭:食べるってどういう感じ?
ヒデ:朝からガッツリ食べる。そしてガッツリ走って、ガッツリ練習して、というのが3、4日ぐらいなかったっけ?
松森:それぐらいですよね。

鬼頭:「もう無理だ」と言って消えていく選手がいるんですか?
松森:普通の公立高校の部活なので自由に入れるんですが、その春休みが終わった時にはもう20人ぐらいしかいなかったです。
ヒデ:最初は50人とか80人とか入れちゃうんだけど、残るのは20人ぐらいなんです。
松森:走れないと続かない。
ヒデ:でも、これが夏とか、選手権のきつくなってきた時に効いてくるんです。技術面では帝京高校の皆さんに勝てなくても、やっぱり走ってきたという自負と、実際にこの足やハートで1歩前に出るんだよね。
松森:そうですね。食べることで胃を鍛えて、走ることで折れない心を鍛えていました。
ハーフタイムはトレーニングの時間
鬼頭:松森さんが感じる布先生の凄さは?松森:小学生の頃からずっと憧れていた監督だったので、もうあの先生に何を言われても何をされても、絶対ついていこうというところからスタートしました。何度も怒られ、何度も走らされ、何度も…。
ヒデ:それ以上言うな!
松森:私の時代は多分、ヒデさんの時代よりは緩いと思います。
ヒデ:後輩たちにも「そんなことがあったんですか?」って言われるでしょ。そんな馬鹿なことが僕らの時代は当たり前だったね。ハーフタイムに走る、というのはありました?
松森:はい、ありました。
ヒデ:普通、ハーフタイムは休んで後半に向かうと思うじゃないですか。でも違う。監督いわく、ハーフタイムはトレーニングの時間なんですって。
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僕たちはインターハイでも、ハーフタイムに走るという謎の気合入れがありました。でも、最終的に優勝しました。
松森:練習試合でも、1試合目の鹿児島実業高、2試合目の清水商業高(現清水桜が丘)との間にガンガン走って、「お前ら、負けたら分かっているな」と。でもなぜか勝てるんですよ。
ヒデ:やっぱり先生の言うことは正しかったということなんです。
松森:監督は「限界を自分でつくるな」とよく言っていましたよね。
ヒデ:「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とか、「無事これ名馬なり」、「和以征技(わじせいぎ)」=チームワークで技を征す=、これもずっと我々聞いてきたね。
僕たちはあれを乗り越えたから、社会でやっていける。限界はないです。吉本も厳しいけど、お金をくれる。市船の時は1円もお金をくれなかった。
鬼頭:学生だからね(笑)。今も市船出身の方と繋がりはあるんですか?
松森:年末にOB会があります。
ヒデ:ちなみに私は1回も行ったことない。年末なんで芸人は忙しいんですよ。なぜか相方は毎年行けているんですけど。
松森:ワッキーさんは毎年来ています。
ヒデ:すみません。たまたまそういう日、僕はあばら骨を折ったりするんですよね。
松森さんのセカンドキャリア
鬼頭:松森さんはそんな高校時代を経て、ジュビロ磐田に加入。2年で現役を引退しましたが、この2年間は厳しいものでしたか。松森:もちろん厳しい世界だと分かった上で入ったんですが、サテライト(Bチーム)には田中誠さんや鈴木秀人さんら、その後に日の丸を背負う選手がたくさんいました。そこで壁にぶつかった時に「ちょっとこれは違うな」と身にしみました。
ヒデ:厳しさを知り、その後に今度はスタッフとして磐田に残るわけですよね。
松森:やっぱりサッカーが好きだったので、選手じゃなくてもサッカーに携わっていくにはどうしたらいいのかと考えました。すごい先輩たちを見て、コーチや監督になるのは違うなと思いました。
そこからビジネス専門学校に通い、その後にウェブの担当でジュビロ磐田に声をかけてもらいました。

ジュビロ磐田の広報担当時代の松森亮さん=2011年
ヒデ:どのような魅力を、ジュビロ磐田やサッカーに感じていたんでしょうか。
松森:選手としてずっと、ゴールを決める、試合に勝つというのがサッカーだと思っていたんです。でもプロの世界に入って、応援してくれる人や支えてくれる人、全部がサッカーなんだなというのを感じることができました。
今度はそこをしっかり盛り上げていかないと日本のサッカーは盛り上がらないと思い、周りのスタッフの中に元選手の人は少なかったんですが、広報とか運営でチャレンジしてみようと思いました。
ヒデ:ジュビロへの感謝もあるし、自分がやってきたノウハウもそこで活かせるだろうし。何よりもやっぱりサッカーは1人じゃない。そういうことに気づかれて、広報に行ったということですね。
鬼頭:当時イケメン広報で有名でした。
松森:当時は鬼頭さんともよくご一緒させていただきました。
鬼頭:新人の頃なので15年以上前ですね。私もまだピッチピチで、いろいろ教えてもらいました。
松森:でもすごく楽しくて、ジュビロも強くて忙しい時期で広報としてもやりがいがありました。新しい企画もたくさん作れる時代だったので、1日1日、全部新しいことができるような世界でした。

ヒデ:今は株式会社W.O.Eの経営責任者。どんな仕事をされているんですか。
松森:広報で経験できたことを、今度はサッカーだけじゃなくてスポーツ全般でやろうと思って始めました。現在は、子供たちにスポーツの楽しさを教えるために都内で活動しています。
ヒデ:東京で行われるジュビロ磐田のイベントではどんなことをされているんですか。
松森:東京からでもジュビロを応援したい、支えたいというのもあって、パブリックビューイングやイベントをやらせてもらっています。
鬼頭:ラジオを聞いている皆さんにメッセージをお願いします。
松森:僕が入った時のジュビロや、広報として働かせてもらっていた時のジュビロのように、また夢と感動を与えられるクラブになっていかなきゃいけないし、なれるチームだと思います。
そこには周りの皆さんの支えが必要なので、ぜひ皆さんで盛り上げて、選手たちと一緒にチーム一丸となって、またいつか優勝できたらいいなと思っています。


サッカー大好き芸人、ペナルティ・ヒデと、サッカー中継のリポーターとしても活躍する鬼頭里枝の2人がお送りする番組。Jリーグから海外サッカー、ユース世代、障がい者サッカーなど幅広くスポットを当て、サッカーを通して静岡を盛り上げます。目指すは「サッカー王国静岡の復権」です!