サッカージャーナリスト河治良幸
小野伸二が“楽しむ”と言う言葉に込めた意味。現役生活の終わりとこれからも続いていくサッカー人生
北海道コンサドーレ札幌の小野伸二が、26年間の現役生活のラストマッチとなる浦和レッズ戦でスタメン起用された。右腕にキャプテンマークを巻いて約20分間プレー。札幌特有のマンツーマンの守備もこなしながら、エレガントなボールタッチで観客を魅了した。
すでに交代選手が用意された15分過ぎ、小野らしい見事なワンタッチの縦パスでFW小柏剛の抜け出しを演出して、ゴール左でFKを獲得。小野はベンチに交代か確認したら、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督はプレー続行を指示した。キッカーを務めた小野が右足で合わせに行ったボールは惜しくも浦和のDFマリウス・ホイブラーテンに跳ね返された。
「ちょっと角度的に、自分が狙えるような角度じゃなかったので。後から考えれば、もう少しゴールを狙って終わっても良かったのかなと思いますが、やっぱり自分の性格上、チームのことを考えてしまうので。どうしてそういうひらめきにいかなかったのか、いつもそうなんですけど・・・試合が終わった後で反省しております」
そして小野がピッチを去る時には、札幌と浦和の両選手が花道を作り、ピッチから出るとミシャ監督をはじめスタッフが総出で小野と抱擁をかわした。「今もそうなんですけど、これからもそうかもしれないですけど、本当に現役生活が終わったっていう実感がいつ来るのかなっていう感覚ではいます」
シンジ・オノの始まりは沼津
小野はプロのキャリアを浦和でスタートしたが、サッカーの始まりは静岡県の沼津だった。母子家庭の10人兄弟。その6番目だった伸二少年が一人でボールを蹴っている時に地元少年団の監督の目にとまり、チームスポーツとしてのサッカーをスタートさせた。
小野の母は今年10月に亡くなった。「10人を育ててくれたお母さんというのは、本当に僕にとって心強かったですし、正直、きょうという日を見せたかった」
彼の才能が広く知られるきっかけとなったのは全日本少年フットサル大会のバーモントカップであり、地元中学のサッカー部に所属しながら15歳で出場した1995年のU-17世界選手権(現在のU-17W杯)だった。
この時、一緒に選ばれていた”79年生まれ組”の高原直泰、稲本潤一の3人を中心に、のちに”黄金世代”と呼ばれる伝説が築かれていく。”清商”こと清水商業高校(現清水桜が丘高校)では全国高校サッカー選手権こそ一度も出られなかったが、全日本ユースやインターハイで活躍し、国民体育大会では静岡県選抜を牽引し、2連覇の立役者に。当時のJリーグクラブほぼ全てからオファーが届く中で、小野は浦和レッズに加入した。
そこから1998年のフランスW杯を最年少の18歳で経験し、99年ワールドユースで準優勝、さらに日韓W杯、ドイツW杯に出場。オランダのフェイエノールトではUEFAカップ優勝という金字塔を打ち立てた。当時一緒にプレーしていた元オランダ代表のロビン・ファン・ペルシーは浦和戦後の引退セレモニーにも映像で登場し、小野のプレーに大きな影響を受けたと振り返っている。44歳という年齢まで、浦和や清水エスパルスなど国内外7つのクラブで高度なテクニックと閃きを見せてきた。
「高校生ぐらいがピークだったのかな(笑)」
ワールドユース後のシドニー五輪1次予選、フィリピン戦で左膝に大きな怪我を負ったことが、慢性的な痛みや度重なる怪我につながったという。小野も引退会見であらためて「高校生ぐらいが一番ピークだったのかなっていうふうに思っている(笑)」と語った。
それでも44歳まで現役を続けられたのはなぜか。それは「楽しむ」という彼のモットーに集約されている。
小野にとって、これまでサッカーはどういう存在だったか。「自分が自分らしくいられる時間だったなと思っています。サッカーを通じて、たくさんの方に出会って、いろんな方に触れ合えて、自分という人間もまた成長できたのかなと思います」。
小野にとって「楽しむ」とはサッカーだけでなく、人生そのものであるという。「僕はサッカーだけじゃなくて、普段の生活も含めて、全てのことに関して楽しもうと思っているので。サッカーをすることだけじゃないので、今こうやって皆さんの前でお話しさせていただいている空間も心の中で楽しんでいますし、そういう形で楽しむっていうものを考えています」
小野がFC琉球でプレーしていた1年半、チームメートだった浦和のMF小泉佳穂は「あの時に琉球でシンジさんに会わなかったら、今ここにいるかも分からない。僕のサッカー人生も違ったものになってる」と明かす。
小野からは「幸せじゃないといいプレーなんてできるわけないでしょ」と教えられたことが、今も強く記憶に残っているという。「サッカーだけじゃなくて、人生の、人としての豊さを大事にしようって。僕自身もいろんなことがあって、そう思うようになったので。その言葉はすごく印象に残ってます」
その小泉に「これからの日本サッカーをもっともっとけん引していってもらえたら」とエールを送った小野はこれまでいろいろな人に影響を与えてきたはずだ。
今はあくまでプロ選手としてのキャリアを終えたに過ぎない。「僕のサッカー人生が別に終わるわけでもないので、これからは違う形でサッカーとまた触れ合っていくんじゃないかな」
小野伸二のサッカー人生が幸せであるように、そしてまた生まれ育った静岡の地も関わっていくことを願っている。
<河治良幸>
タグマのウェブマガジン「サッカーの羅針盤」を運営。 サッカー専門新聞「エル・ゴラッソ」の創刊に携わり、現在は日本代表を担当。プレー分析を軸にワールドサッカーの潮流を見守る。著書は「ジャイアントキリングはキセキじゃない」(東邦出版)「勝負のスイッチ」(白夜書房)「解説者のコトバを聴けば サッカーの観かたが解る」(内外出版社)など。
タグマのウェブマガジン「サッカーの羅針盤」を運営。サッカー専門新聞「エル・ゴラッソ」の創刊に携わり、現在は日本代表を担当。世界中を飛び回り、プレー分析を軸にワールドサッカーの潮流を見守る。