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わたしの街から 御殿場市東山・二の岡地区

 富士山を仰ぎ見る高原都市、御殿場。四季を通じて多彩な趣を見せる霊峰は、時代を問わず多くの人々を魅了します。明治時代、この地を訪れた外国人もまた、その景観に魅せられ、別荘を構えるようになりました。政財界の著名人もこぞって進出し、明治後半から昭和初期まで、御殿場は一大別荘地になりました。箱根外輪山の麓に位置する東山地区と二の岡地区には、とりわけ多くの別荘が立ち並びました。
 〈静岡新聞社御殿場支局・矢嶋宏行〉

富士山仰ぐ別荘地、外国人や政財界を魅了 皇族もお住まいに

 外輪山の直下、木々に囲まれた閑静な別荘地「二ノ岡荘」。ここにはかつて、外国人別荘地「アメリカ(亜米利加)村」があった。

御殿場市東山地区の東山旧岸邸
御殿場市東山地区の東山旧岸邸
 時は1891(明治24)年、横浜在住の英国人植物商バンディングが偶然訪れた二の岡を気に入って別荘を構えた。知人の英国人や米国人らが続いて別荘地を形成。周辺にも広がった。元外務大臣松岡洋右、元日本銀行総裁井上準之助らが拠点を置き、昭和天皇の弟宮の秩父宮殿下もお住まいになった。
 富士山麓の片田舎の隆盛ぶりは、夏目漱石が著書で「御殿場の兎(うさぎ)が急に日本橋の真中(まんなか)へ抛(ほう)り出された」と皮肉交じりに取り上げたほど。市教委社会教育課の勝俣竜哉さんは、外国人に人気のあった箱根の裏側という立地、富士山、東海道線(現御殿場線)の駅の存在が発展の要因と分析する。多くの外国人によって、西洋やキリスト教の文化が持ち込まれたという。
 御殿場をこよなく愛した一人が、岸信介元首相。73歳の時に東山地区の自邸(現在の東山旧岸邸)に移り住み、ゴルフや盆栽を楽しみながら悠々自適な日々を過ごした。田中角栄、福田赳夫ら大物政治家が面会に訪れた。学芸員の玉井由紀子さん(35)は「重要な決定の相談に訪れていたのでは」と推測する。
 時の流れとともに別荘は少なくなったものの、歴史資源が点在し往時の面影をとどめる。市は両地区を景観整備重点地区に指定し、景観保全と資源活用に取り組んでいる。地元団体の東山・二の岡路観光協議会は情報発信などに力を入れる。二ノ岡荘組合理事長の福岡孝昭さん(79)は、アメリカ村の象徴だった教会を再建し、資料館にしようと思い描く。「どのような文化があったか、きちんと残したい」と語る。

 
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御殿場市東山・二の岡地区
 

著名人の息遣い そこかしこに【写真特集】

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和室。茶会を開いて客人をもてなした=御殿場市東山地区の東山旧岸邸

 
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書斎兼応接間=御殿場市東山地区の東山旧岸邸
 

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多くの外国人が別荘を構えたアメリカ村は万国村とも呼ばわれた=御殿場市東田中の二ノ岡荘

アメリカ人宣教師が伝えたハムの味 今も受け継ぐ製法

 東山、二の岡地区に住んだ外国人は地元住民にさまざまな技術や文化を伝えた。食品製造販売業の二の岡フーヅ(御殿場市東田中)は、当時伝授されたハムやベーコンの製法を今も受け継いでいる。

薫製室に肉を運ぶ芹沢尚幸さん
薫製室に肉を運ぶ芹沢尚幸さん
 地区は産業が乏しく、外国人が求める食材はほとんどなかった。そこで、米国人宣教師のボールデン夫妻らが養豚組合をつくり、養豚とハムの製法を住民に教えた。昭和に入り本格的なハムの生産が始まったが、戦時色が強まったため夫妻は1936(昭和11)年に御殿場を離れた。他の外国人も次々と去り、肉の需要は低下。住民の多くが生産をやめる中、教えを受けた技術と味を守ろうとしたのが二の岡フーヅ初代の芹沢正策だった。
 5代目の芹沢尚幸さん(36)は「夫妻が戻った時、なくなっているのは忍びないと思ったのでは」と正策の胸の内を推し量る。
 まきを焼いた煙で肉をいぶし乾燥させて香りをつける薫製は、教えられた製法の一つ。一般的な薫製に比べて表面の色が濃くなり、香りが強くなる。独特の味わいを求め、遠方から訪れる客も多い。
 正策と夫妻の再会はかなわなかったが店内には「創設者」として夫妻の写真が飾られている。尚幸さんは「夫妻がいなかったら、この味はなかった。これからも守りたい」と決意する。
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ボールデン夫妻