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父母の無念、今も胸に刻んで  戦没者眠る南の島へ通う【生き抜く】「遺骨収集」

 うっそうとしたジャングルだった。太平洋戦争中に東部ニューギニア(現在のパプアニューギニア)で父を亡くした森本浩吉(82)は、戦没者の遺骨を探していた。巨木の下から見つかった全身の骨。折り重なっていたのか、次々と。

父に抱かれた写真を手にする森本浩吉。妻と幼子を残し戦場へ向かった父の心情を思うと、今でも涙があふれる=2023年10月、横浜市のかながわ平和祈念館
父に抱かれた写真を手にする森本浩吉。妻と幼子を残し戦場へ向かった父の心情を思うと、今でも涙があふれる=2023年10月、横浜市のかながわ平和祈念館
慰霊巡拝に訪れたパプアニューギニアのボイキンで、住民らに見守られながら手を合わせる森本浩吉。宿泊先の部屋には父と母の写真を置き、「行ってくるよ」などと語りかけた=2001年2月(提供写真)
慰霊巡拝に訪れたパプアニューギニアのボイキンで、住民らに見守られながら手を合わせる森本浩吉。宿泊先の部屋には父と母の写真を置き、「行ってくるよ」などと語りかけた=2001年2月(提供写真)
神奈川県戦没者慰霊堂前で撮影に応じる森本浩吉=2023年10月、横浜市
神奈川県戦没者慰霊堂前で撮影に応じる森本浩吉=2023年10月、横浜市
父に抱かれた写真を手にする森本浩吉。妻と幼子を残し戦場へ向かった父の心情を思うと、今でも涙があふれる=2023年10月、横浜市のかながわ平和祈念館
慰霊巡拝に訪れたパプアニューギニアのボイキンで、住民らに見守られながら手を合わせる森本浩吉。宿泊先の部屋には父と母の写真を置き、「行ってくるよ」などと語りかけた=2001年2月(提供写真)
神奈川県戦没者慰霊堂前で撮影に応じる森本浩吉=2023年10月、横浜市

 2003年、初めて遺骨収集に参加した。冷たい土から丁寧に拾い上げる。「父だろうか。父とすれ違った方だろうか」。そんなことを考えた。
 ▽戦死公報
 森本は1941年、今の韓国・ソウルで生まれた。1歳1カ月の時、父の利雄が南方へ出征した。「浩吉は大きく成長したことだろうね」。家族を思いやるはがきが3通、戦地から届いた。
 1945年8月に終戦。母のハツは、森本とその妹を連れて父の本籍地、津市に引き揚げた。森本が持たされた人形にいくばくかのお金を隠していたが、引き揚げ船でいつの間にか奪われてしまった。
 翌1946年6月に戦死公報が届いた。衛生兵だった父は1944年12月に亡くなっていたのだ。森本は当時を覚えていない。だが「信じて帰りを待っていた母は、幼子2人を抱えてどんな思いだったろうか。死ぬことも考えたかもしれない」と想像する。
 母の弟のいる長崎県に転居し、母は町役場で働き始めた。6畳と3畳の2間の引き揚げ者住宅で暮らした。風呂はなく、近所に借りに行く。2玉のうどんを3人で分けた日もあった。
 ミカン箱で作った父の仏壇に向かい「今日も一日過ごせました」と朝晩、家族で報告する。母は必死で働きながら、身なりだけはきちんとしなさいと、靴についた汚れを歯磨き粉で落としてくれた。「父親のいない家庭の子だからと他人に言われないように」が口癖だった。「父は国のため、家族のために亡くなった。誇りを持っていた」
 森本は高卒で就職。いち早く自立しなければという思いがあった。
 ▽慰霊巡拝
 工場勤務や出向、単身赴任も経験した。定年が迫った頃、住んでいる神奈川県の広報紙でパプアニューギニアへ慰霊巡拝に行けると知る。父の眠る旧戦地だ。
 2001年、59歳で初めて現地へ。飛行機から降り「おやじ、来たよ。浩吉です」とつぶやく。父が亡くなったとされるボイキン地区にまで足を延ばした。
 現地の石を持ち帰り、横浜市の病院に入院していた母に握らせ、ボイキンの写真も見せた。母は「うん、うん」とうなずき、泣いた。2001年7月、88歳で母は逝った。「本当は、大好きだった父が亡くなった場所に行きたかっただろうに」。2年後、再びボイキン訪問の機会があると知る。今度は遺骨収集のためだ。
 ▽つえ持参
 それまでずっと父の遺骨は戻らず、形見は自分ら遺児だと思っていた。だから初めての遺骨収集に、出征前の父が森本を抱く写真を持参した。
 2班に分かれ、森本は野戦病院跡とされる現場へ。毎日、倒木をくぐり、川を渡って通った。「父はこの道を歩いたかな。この川の水を飲んだかな」。父と共に歩いているような錯覚を覚えた。
 ある時、収集に協力してくれる現地の住民に「森本を知っているか」と尋ねた。すると高齢の男性が「シッテル、シッテル、ドクター!」と答えた。適当に合わせているだけかもしれない。でも父は衛生兵だ。「優しい父のことだ。常に衛生兵のかばんを持ち、村の人に赤チンを塗ってあげていたのかな」。そう考えると涙がこぼれた。この辺りで生きていたことを確かめられた気がした。
 この収集派遣では123柱の遺骨を日本に持ち帰った。誰の遺骨か分からないまま、遺骨箱の一つを抱きしめた。
 遺骨収集事業の人手が足りないと相談され、多い時で2~3カ月に1度、訪れるようになった。妻(80)には「また行くの?」と言われるが、使命感がある。
 長男の貴彦(56)は森本の熱心さに驚いた。「そんなに思い入れがあったんだ…」。仕事一筋だった現役時代の姿からは想像できない。
 壁にぶつかることも多い。地権者同士の争いで収集が止まる。遺骨がどこにあるかという情報が減っていく。2019年にはロシアなどで収拾した遺骨の取り違え問題が発覚し、日本に持ち帰れる遺骨の基準が厳格化した。そして新型コロナウイルス禍で約2年間、派遣が止まった。
 「可能な限り現地に行き、骨を探したい」。そう願うが、体力の限界も迫る。2023年10月、慰霊巡拝でボイキンを再訪問。パプアニューギニアには通算40回通ったが、初めてつえを持参した。
 父だと分かる遺骨はまだ見つからない。「この先、100年続く事業ではないと思う。遺骨収集が終わっても、戦争で亡くなった人がいたこと、自分のような遺児がいたことは忘れてほしくない」

 【もっと知るために/多数の遺骨残る悲惨な戦場】
 日中戦争以降の戦没者は約310万人。中でも東部ニューギニアは「生きて帰れぬ」「死んでも帰れぬ」などと言われた悲惨な戦場だった。政府は1952年度から、国内外の戦没者の遺骨収集事業を始めた。
 パプアニューギニアでの収集を主に担う「東部ニューギニア戦友・遺族会」の平山一美(81)は当時の戦闘や行軍の状況から、旧日本軍の将兵は敵に見つかりにくい密林や湿地を徒歩で何百キロも移動しており「どこをどのように行動したか定かではない」と語る。現地の伝聞情報を頼りに収集に当たるが、戦時にあった集落が移転していたり高齢化が進んでいたりと、困難な状況が続く。
 厚生労働省によると2024年2月末現在、パプアニューギニアに約7万6千柱が残されている。

 (敬称略/文は共同通信大阪社会部記者・中川玲奈、写真は共同通信編集委員・今里彰利/年齢や肩書は2024年4月6日に新聞用に出稿した当時のものです)

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