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川島勝司氏、野球殿堂入り 五輪日本代表、ヤマハで監督

(2021/1/15 09:13)
川島勝司氏
川島勝司氏

 野球殿堂博物館は14日、今年の野球殿堂入りを発表し、アマチュア野球の関係者などを対象にした特別表彰にアトランタ五輪日本代表監督で社会人野球のヤマハ元監督の川島勝司氏(77)=浜松市東区=が選出された。
 川島氏は1996年のアトランタ五輪で日本代表を銀メダルに導き、ヤマハ(旧日本楽器)を率いて72、87、90年の都市対抗野球で3度の優勝を成し遂げた。
 オンラインによる通知式で、川島氏は「殿堂入りの一員に加えていただき、身に余る光栄。野球に携わることで人生の教訓、数え切れない思い出を得た。今後も野球界の発展に微力だが尽くしたい」と喜びを語った。

 ■「野球は選手がやるもの」信条 アマ球界の名将
 アマチュア球界きっての名将、川島勝司氏(77)=浜松市東区=が14日、野球殿堂入りした。「野球は選手がやるもの」が信条。「どんな選手にも成長意欲、成功願望はある。それをいかに燃え立たせ持続させるか」に心を砕いてきた。
 日本楽器(現ヤマハ)を率いて1年目の1972年、都市対抗初優勝を果たした。28歳の若さで指揮官となった当初は勝ちたい一心で罵声も飛ばしたが、次第に言葉掛けを工夫するようになった。「家族は元気か」「今日は外角低めが良かったな」。何げない一言が選手に「自分を見てくれている、期待されている」と伝わり、意欲を刺激した。
 アマチュア中心だった日本代表の指揮官として多くの国際舞台を踏み、世界に対抗できる野球を目指した。最初が72年の第20回世界選手権。世界の頂点に君臨していたキューバのパワーとスピードに「腰が抜けるほど驚いた」。守り主体のスモールベースボールでは世界と戦えない、と攻撃型のチームづくりへと転換していった。
 96年のアトランタ五輪は「野球人として生きるか死ぬかの極限」を経験した。予選では1勝3敗の土俵際から3連勝と挽回。準決勝は地元米国に圧勝し、キューバとの決勝は乱打戦の末9―13で惜敗。試合後、大観衆はキューバのビクトリーランが終わっても拍手をやめなかった。日本選手がベンチから顔を出すと拍手は一層大きくなったという。
 コロナ禍で仕切り直しとなった東京五輪。「厳しい状況と思うが野球というスポーツの素晴らしさを、五輪での活躍を通じて見せてほしい」と期待する。

 ■「五輪登板プラスの経験」 森中氏ら〝教え子〟選出喜び
 「素晴らしいこと」。アトランタ五輪に出場した左腕で、プロ野球の横浜などを経て巨人のスコアラーを務める森中聖雄氏(46)=東海大工高出身=は川島氏の選出を喜ぶ。「責任は自分が背負うからと、選手を信頼し、力を発揮できるようにしてくれた。決勝を含めて4試合も投げさせてもらい肝が据わった。その後にプラスにしかならない経験だった」と感謝する。今も「アトランタの会」と称して年に1回、当時のメンバーが集まるなど親交が続いている。
 川島監督のもと、ヤマハでプレーした長田仁志静清高監督(67)は「練習では妥協がなく、厳しかった」と振り返る。入社2年目のオフは毎晩、一対一で「地獄の特訓」を受けた。都市対抗予選は苦戦続きだったが、巻き返しで見せる勝負強さに川島監督の真価を見た。「苦しい時にドタバタしない」。負けたら後がない試合の前夜に、ビールを差し入れされたこともあったと明かす。
 山本清春さん(73)=湖西市在住=は河合楽器からの補強選手としてヤマハ(日本楽器)の都市対抗初優勝に貢献した。アトランタ五輪日本代表のスタッフも務めた。中大の後輩でもあり、川島氏の人柄を良く知る。「闘争心はあるが物静かな人。面倒見が良く選手を大事にしてくれた。決して威張らず、てんぐにならない」と敬意を示す。

 かわしま・かつじ 1943年4月17日生まれ。栃木県出身。群馬・桐生高、中大を経て日本楽器(現ヤマハ)入社。内野手。71年秋に選手兼任監督に就任、72年の都市対抗初優勝。87、90年と計3度優勝。88年ソウル五輪日本代表コーチ、96年アトランタ五輪日本代表監督で銀メダル獲得。トヨタ自動車でも監督を務めた。元日本野球連盟副会長。県野球協議会会長。浜松市東区在住。

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