沼津市戸田造船郷土資料博物館「ヘダ号設計図」【美と快と―収蔵品物語⑥】

 安政2年3月22日(1855年5月8日)、戸田港(現沼津市)から1隻の帆船がロシアに向けて出発した。田子の浦沖で沈没したロシア船「ディアナ号」の代船として約100日かけて同地で建造された「ヘダ号」。ディアナ号のプチャーチン艦長が戸田への感謝を込めて命名した。同市戸田造船郷土資料博物館の展示品は、日本で初めて造られたこの洋式帆船の意義を雄弁に物語る。

「ヘダ号設計図」 1855年ごろ 石原藤蔵作 帆柱
「ヘダ号設計図」 1855年ごろ 石原藤蔵作 帆柱
「ヘダ号設計図」 1855年ごろ 石原藤蔵作 平面
「ヘダ号設計図」 1855年ごろ 石原藤蔵作 平面
「ヘダ号模型」 浦田康一作
「ヘダ号模型」 浦田康一作
沼津市戸田造船郷土資料博物館
沼津市戸田造船郷土資料博物館
「ヘダ号設計図」 1855年ごろ 石原藤蔵作 帆柱
「ヘダ号設計図」 1855年ごろ 石原藤蔵作 平面
「ヘダ号模型」 浦田康一作
沼津市戸田造船郷土資料博物館

 日ロ外交の端緒である「ヘダ号」の物語を伝える上で最も重要な資料が、同船の設計図だ。上から、横からなど四つの視点による図面3点と、帆柱の形を示した図面1点の計4点。写真が現存しないヘダ号の姿を知る、唯一の手掛かりである。
 描き手は戸田の船大工石原藤蔵。造船に当たり、近在の船大工ら約150人が集められ、石原ら地元の棟梁[とうりょう]7人がロシア人から指導を受ける造船世話掛に選ばれた。石原らは、ロシア人が所持していた船舶雑誌の論文を、オランダ人通訳を介して設計図に落とし込んだ。長さの単位フィートから尺貫法に変換するなど、日本人の職人が理解できるよう工夫されている。
 博物館に残るのは、原本を藤蔵が書き写した図とみられる。開館時に石原家が寄託した。藤蔵から5代目の石原重利さん(74)=同市=は「封筒に入った状態で、墨つぼや定規など大工道具と一緒にたんすにしまわれていた」と回想。同館の筒井久美子学芸員は「和紙に墨で線を引いている。竹製のペンを使っているのでは」と推測した。
 近年、封筒の表書きを足掛かりに、設計図が戦前の海軍省直属「横須賀海軍工廠」に渡ったという説が浮上している。伊藤稔信州大名誉教授(沼津市)の調査によるもので、戦艦大和の設計者である松本喜太郎・海軍造船大尉の目に触れた可能性もあるという。
 伊藤名誉教授は「軍艦に搭載するカッター(帆走船)設計の参考にしたのかもしれない」と仮説を立て、研究深化に意欲を示している。
 (文/文化生活部・橋爪充、写真〈船〉/東部総局・山川侑哉)

 近代洋船の特徴「竜骨」通る 「ヘダ号模型」 浦田康一作
 大阪市の模型愛好家が制作したヘダ号の48分の1模型は、開館後の1990年に寄贈された。同館のモニュメントとして親しまれている。2007年、ヘダ号設計図などとともに経済産業省の近代化産業遺産の認定を受けた。
 石原藤蔵の設計図を基につくられており、近代洋船の特徴である船底中央を船尾から船首まで縦に通す「竜骨」という強度部材も見られる。底が平らな和船との違いがはっきり分かる。博物館の筒井学芸員は「設計図どおり、前から見るとスッとしていて、後ろから見ると丸みを帯びてぼてっとしている」と評した。

 沼津市戸田造船郷土資料博物館
 沼津市戸田2710の1。1967年、ヘダ号の建造地やプチャーチン艦長の遺品などが一括して県指定史跡になったことを契機に博物館建造の機運が高まり、69年に「戸田村立造船郷土資料博物館」として開館した。民間企業や住民から寄付を募り、ソ連政府からは500万円の寄付があった。造船に関わる道具類や関係文書、関係者の肖像画のほか、ヘダ号の模型、日ロ交流の足跡をたどる資料など、寄託品を含め約500点を収蔵する。

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