大韓航空機撃墜40年 兄犠牲「忘れられたくない」 三島の川名さん、続く戦争憂う
日本人28人を含む乗客乗員269人全員が死亡した大韓航空機撃墜事件が発生から40年を迎えた。「教訓は生かされず、いまだに戦争は続いている。忘れられたくない」。東西冷戦が生んだ悲劇によって2歳上の兄が犠牲となった、三島市で酒店を営む川名正洋さん(57)は、ウクライナ侵攻などいまだに続く世界の惨状を憂う。事件を風化させないため関連資料をデジタル化する活動を他の遺族とともに進めている。
20歳の誕生日に事件 遺体帰らず
事件発生40年目の今月1日。川名さんは現場に近い北海道稚内市を訪れた。10年前から毎年出席する平和を祈る式典で遺族を代表し、募る思いを語った。「40年前に兄は東西冷戦の犠牲となったが、世界は変わっていない。尊い命を奪い、悲しみに暮れる家族をつくり、町を破壊する戦争が各地で起きている。戦争がなくなる日が一日も早く来ることを願っている」
事件は、留学先の米国から帰国途中の兄広明さんの20歳の誕生日当日に起きた。「大変だ」。高校3年の2学期が始まる日、川名さんは祖母の声で目が覚めた。テレビに表示された乗客名簿に「カワナ・ヒロアキ」の文字を見つけた。一時は強制着陸したとの報道もあったが、願いは届かず、遺体も遺品も戻って来ることはなかった。
事件後、生活は一変した。父優収さん(故人)は遺族会の会長として家を空ける機会が増え、川名さんは家業の酒店を手伝うため高校はほぼ行けなくなった。なるべく親元で暮らそうと地元にキャンパスがある大学を選んだ。卒業後には家業に入り、懸命に生きてきた。節目の年を迎え「事件がなければ違う人生があったかもしれない。兄も生きていれば結婚や子育て、仕事に色濃い40年だったはず」と振り返る。
遺族の高齢化は進み、式典の参加者は年々減少する。「事件を知らない若い人は多い」と川名さんは記憶の風化を危惧する。今年から稚内市や遺族が持つ関連資料のデータ化を他の遺族とともに始めた。将来的にはインターネットで誰でも見られるようにしたい考えだ。事件について考える度に「平和に近づいてほしい」との強い思いを抱く。大切な家族や友人が戦渦に巻き込まれることのない日を願い、活動を続ける。
(三島支局・岡田拓也)
大韓航空機撃墜事件 米ニューヨーク発アンカレジ経由ソウル行き大韓航空機が1983年9月1日、サハリン上空でソ連軍の戦闘機に撃墜され、乗客乗員269人全員が死亡した。大韓航空機は千島列島沖の予定航路を外れ、カムチャツカ半島を横切るなどソ連領空を長時間飛行。国際機関は同機の航法ミスと、旧ソ連軍による米軍偵察機との誤認が原因と結論づけた。