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テーマ : 三島市

静岡県外からの避難者救援に力 広域連携、受け入れ迅速に【伝える 関東大震災100年と静岡⑤完】

清水波止場に上陸する首都圏からの避難者ら=1923年9月(静岡県立中央図書館蔵「大正十二年関東大震災静岡県被害状況写真帳」から) 「静岡県は被災地でありながら県外からの避難者受け入れに努めました。東京や横浜などに拠点を設け、被災者救済に尽力したことはあまり知られてません」
 7月下旬、三島市錦田公民館で開かれた市民講座で講師を務めた錦田郷土研究会の神山明久さん(60)=同市=は熱弁をふるった。
 神山さんが調べた1924年の文献「静岡県大正震災誌」によると、関東大震災が起きた23年9月1日、県は午後8時に被災者の救護方針を決め、徹夜で準備。2日未明には県東部の被災地に派遣する救護班などを編成した。まだラジオ放送すらなく、家庭に電話さえ普及していない時代。「鉄道など交通網が寸断され、被害の全体像を把握するまで時間を要した。それでも県の対応は迅速だった」と神山さんは評価する。
 家を失い、食料を求める東京・神奈川の被災者が大挙して本県に避難してきた。神奈川方面から徒歩で箱根などの山を越えて来る避難者や船で到着する避難者を受け入れるため、県は沼津駅や清水港などに救護所を開設。他県に行く避難者も含め11万人以上が本県に流入したとみられる。県は県出身者の帰郷支援のため東京、横浜、小田原に案内所を開設し、支援物資を船で輸送。首都圏住民にも配給するなど救援を行った。
児童の被災体験記が掲載された「子供之世界 震災慰問号」を手にする神山明久さん=8月中旬、三島市 神山さんが県の活動を調べたきっかけは、震災後に三島市で発行された児童投稿誌「子供之世界 震災慰問号」で見つけた小学生の被災体験記だった。横浜から避難先の三島の小学校に編入した小学3年生男児は地震直後、横浜の公園に避難して2日間何も食べず野宿しながら船の出航を待った。「船が清水へ着き、いろいろな物をいただいてうれしかった」とつづった。
 県大正震災誌によると、男児のような県内小学校への編入希望者は約5千人に上り、ほぼ全員を受け入れた。「被災体験記を読んだ当初は行政の支援が足りない気もしたが、調べてみるとかなり手厚く活動していた」と神山さんは驚く。
 今後首都直下地震が起きた場合、県外からの避難者にどう対応するのか。県の山田勝彦危機報道官は「関東大震災当時と今ではかなり状況が違う」と指摘。住民の防災意識が向上し、住宅耐震化なども進んだことを踏まえ、被災した都県はその地域内で避難者支援や生活再建に取り組むのが基本との見方を示す。一方で被災規模が大きく、多数の避難所や仮設住宅が必要な場合などに備え、広域避難を行うための法整備も整えられているという。「本県も被災都県の住民の受け入れや公営住宅提供などの被災者支援について、国や全国知事会と連携して検討していく」と説明する。
 (社会部・中川琳、瀬畠義孝、武田愛一郎、伊東支局・白柳一樹が担当しました)

 <メモ>関東大震災の発生後、東京・神奈川では食料不足への対応と社会の混乱防止のため、被災者の地方分散と無賃輸送が行われた。避難船の運航には民間の汽船会社や海軍の軍艦などが協力。清水港への上陸者は約8万4900人に上った。陸路では、箱根を越えて三島に来るルートで約1万5700人、足柄山地を越えて小山・御殿場に来るルートで約1万人が流入した。県は県庁に震災救済本部を設置。駿東郡役所(沼津市)と鈴与商店(静岡市清水区)に出張所、県内各地に救護所や収容所を設け、避難者に対応した。

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