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昭和初期 偉才の言論人・清水芳太郎 “最期の地”「静岡山中」か 定説は飛騨、親族「真相知りたい」

 昭和初期の言論人で、太平洋戦争の開戦直後に飛行機事故で亡くなった清水芳太郎(1899-1941年)の死亡場所が、定説の飛騨山中ではなく、静岡市だった可能性が明らかになった。親族が戸籍謄本で発見した。親族は「思いも寄らぬ食い違いに驚いている。混乱した政治下の事故でもあり、その身に何かあったのか」と話し、真相を知ろうと情報収集を始めた。

死亡場所を巡る食い違いに「真相を知りたい」と話す清水加年生さん=今月初旬、静岡市駿河区
死亡場所を巡る食い違いに「真相を知りたい」と話す清水加年生さん=今月初旬、静岡市駿河区
清水芳太郎(親族提供)
清水芳太郎(親族提供)
死亡場所を巡る食い違いに「真相を知りたい」と話す清水加年生さん=今月初旬、静岡市駿河区
清水芳太郎(親族提供)

 文献などによると、清水は28歳の若さで福岡市の九州日報(西日本新聞の前身)の主筆兼編集局長に就任。その後、社長を務めた。太平洋戦争が開戦した5日後の41年12月13日、東京から福岡に軍用機で移動中の飛騨山中で事故に遭い、42歳で死亡したとされる。後に福岡市に建立された記念碑にも、死亡場所は飛騨山中と刻まれた。
 ところが最近になり、おいの清水加年生[かねお]さん(74)=静岡市駿河区=が所用で清水家の本籍がある和歌山県那智勝浦町から戸籍謄本を取ったところ、死亡場所が「静岡県安倍郡井川村田代」「赤石岳富士見平東側西河内側約千メートルの断崖」と記述されていることに気づいた。現在の静岡市葵区で、南アルプスの山あいになる。
 加年生さんは「今まで定説を疑いようもなかった」と困惑した様子で「単純な間違いなのか。何か伏された真実があるのでは」と話す。
 清水を研究し、書籍もまとめた鹿児島大法文学部の平井一臣教授(64)は「当時多くの関係者に話を聞き取ったが、死亡場所に関する裏付けや文書はほぼなかった」と述懐し、今回の新発見に関心を寄せる。
 加年生さんは清水と面識はないが、経歴や功績は一家の語り草で、誇りに感じてきたという。「20歳で静岡に移り住んで50年余り。この地で再び伯父との縁がつながった。井川で亡くなった確証を突きとめ、現地で花を手向けたい」と思いを巡らせた。

 ■才能に陸軍要人ら注目
 清水芳太郎は和歌山県那智勝浦町出身で早稲田大を卒業した。言論人と同時に科学者の一面もあり、陸軍の要人だった東条英機が技術開発能力を、石原莞爾が思想を頼ったとする記録がある。
 生前親交のあった政治家や軍人、学者らがまとめた文献によると、亡くなる前年の1940年に九州日報の社長を辞任し、東京の理化学研究機関で「国家非常時に対処するための研究」に取り組んだ。東条の要請だったとされる。石原は清水について「識見と人格に深く敬服した」「著書は全部拝見し、私の講演は常に氏の卓見を引用した」と記した。

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