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テーマ : 掛川市

シベリアで強制労働、戦友失う 無念の抑留「命何より重い」【戦禍の民 しずおか戦後77年とウクライナ②】

シベリア抑留の経験を語る佐々木暢也さん。「命ほど重いものはない」と訴える=7月下旬、掛川市
シベリア抑留の経験を語る佐々木暢也さん。「命ほど重いものはない」と訴える=7月下旬、掛川市
シベリア抑留の経験を語る佐々木暢也さん。「命ほど重いものはない」と訴える=7月下旬、掛川市

 1946年の冬、旧ソ連中部に位置するタイシェット近郊の収容所。10人ほどのソ連人の作業監督が死んだ抑留者を埋めるため、地面に穴を掘っていた。酷寒の中、栄養失調でやせこけた亡きがらは凍り付いていた。作業監督はまるで物を割るように遺体をたたき壊し、バラバラにして穴に放り込んだ。30人分はあっただろうか。
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 旧満州のハルビンで終戦を迎えた佐々木暢也さん(96)=掛川市=は、シベリアでバム鉄道の建設作業を強いられていた。「人間の扱いじゃない」。涙を流しながら埋葬の様子を見ていたが、抑留の身ではどうすることもできなかった。無念さとともに「こんな所では死にたくない」との思いを強くした。
 終戦後、ソ連の捕虜となり、他の日本兵らとともに牡丹江から列車で移動し抑留された。タイシェットから東に約340キロのブラーツクまでの区間で3年間、強制労働に従事した。森林伐採や線路の枕木の運搬。食事はわずかなパンやかゆが中心だった。作業にノルマが課せられ、達成できなければ少ない食事をさらに減らされた。飢えと重労働、不衛生な環境で年長者から力尽きていった。無残に埋葬される場面を目にしたのは一度や二度ではない。
 47年の冬。親しくしていた戦友が衰弱し亡くなった。こっそり盗んだセメント袋に名前と住所を記し、小指を切断して一緒に持ち続けた。「せめて体の一部だけでも遺族に届けたかった」。しかしナホトカから帰還船に乗る直前、身に付けていたものを全て没収された。
 抑留生活では共産主義教育も行われた。佐々木さんは「啓蒙(けいもう)宣伝部長」を命じられ、帰還者の面接をする事もあった。生き延びるためとはいえ、本心を偽り、共鳴したふりをするのはつらかった。
 数年前から自身の半生をつづっている。今年に入りシベリア抑留の経験を記す段階に差し掛かった頃、ロシアがウクライナに侵攻した。報道で目にする破壊された病院や一般市民の犠牲は、かつて満州で見た敗戦直後の街を思い起こさせた。ロシア国内の弾圧のニュースにも接した。戦っている兵士や市民の本当の気持ちは想像しかできないが、「意に反して苦しんでいる人もいるだろう」。抑圧され、不条理な命令にも従わなければならなかった軍隊や抑留生活での経験とも重なる。
 過去の戦争も、今起きている戦争も本質は変わっていない。「命ほど重いものはないはずなのに」。佐々木さんは問い続ける。「国益のための侵略や戦争は繁栄をもたらさない。なぜ、平和という共通の目標に向かって各国が協調できないのか」

 <メモ>シベリア抑留 第2次世界大戦終結後、旧ソ連は日本兵や民間人約57万5000人を拘束し、シベリアやモンゴルの強制労働収容所に移送した。鉄道敷設のほか、道路、建物の建設、農作業なども課した。厚生労働省によると、約5万5000人が飢えや寒さなどで抑留中に死亡した。1947年から帰還が本格化し、ソ連との国交が回復される56年まで続いた。

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