島田市博物館「田植の連句」 1694年、松尾芭蕉作【美と快と-収蔵品物語㉚】

 「越すに越されぬ大井川」とうたわれるほど、大井川は流れが急で橋がなく、雨で増水すれば、川留めとなった。東海道を行き交う文人墨客も例外ではなかった。俳人松尾芭蕉(1644~94年)もその1人。川留めによって繁栄した島田宿で、地元の有力者と親交を深めた。芭蕉の人柄を物語る最晩年の連句が、島田市博物館に収蔵されている。

「田植の連句」 紙本淡彩 縦35センチ×43・4センチ 如舟 やはらかにたけよことしの 手作麦 はせを田植とともにたびの朝起 元禄七、五月雨に降りこめられて、あるじのもてなしに心うごきて聊筆とる事になん
「田植の連句」 紙本淡彩 縦35センチ×43・4センチ 如舟 やはらかにたけよことしの 手作麦 はせを田植とともにたびの朝起 元禄七、五月雨に降りこめられて、あるじのもてなしに心うごきて聊筆とる事になん
「大井川川越油札」
「大井川川越油札」
島田市博物館
島田市博物館
「田植の連句」 紙本淡彩 縦35センチ×43・4センチ 如舟 やはらかにたけよことしの 手作麦 はせを田植とともにたびの朝起 元禄七、五月雨に降りこめられて、あるじのもてなしに心うごきて聊筆とる事になん
「大井川川越油札」
島田市博物館

 弟子に宛てた書簡によると、芭蕉は元禄7(1694)年5月15日夕方、島田宿に到着した。対岸の金谷宿に空きがあるか心もとなく、地元の有力者で俳人の塚本孫兵衛(如舟)の勧めで塚本家へ。その夜の大雨で川留めとなり、19日まで滞在した。
 連句は、如舟の「今年出来の麦ですから、軟らかく炊けよと申し置きました」という長句で始まり、持病があった芭蕉への温情がうかがえる。芭蕉(はせを)も「田植え時ですから、朝早く起きて旅に出ます」と、農繁期への配慮を短句に詠んだ。
 墨書は全て芭蕉の筆による。淡彩で描かれた絵は麦と思われる。芭蕉が塚本家に滞在したのは2度目。「如舟の俳句は旦那衆の芸事以上の才能があり、再訪したのだろう。4泊は静養となったはず」と朝比奈太郎主任学芸員は推察する。
 この滞在が、芭蕉最後の旅路だった。同年10月、大坂で死去。お礼として如舟に贈った「田植の連句」を含め、芭蕉自筆の3点が塚本家に伝来した。
 2年後、大井川の川越し制度が確立、如舟は初代の川庄屋に任命された。塚本家は代々、島田宿の要職を務めてきたが、戦後に没落。1960年代、同家の調度品が売りに出されると知った市民有志が資金を寄せ、芭蕉と島田との縁が最も分かる「田植の連句」だけでも、と購入した。
 その後、島田市教委に寄贈され、92年に開館した市博物館所蔵となった。芭蕉の足跡が川越しの歴史の一端を伝える財産として受け継がれている。

 ■まげに結び川渡る「大井川川越油札」 江戸時代
 江戸時代、大井川は幕府の防衛政策などの点からも架橋や渡船が禁じられた。旅人の川越しを手助けする人足が現れ、通行量の増加とともに渡り方や料金を統一するため1696年、「川越し制度」が設けられた。
 塚本孫兵衛(如舟)も務めた川庄屋は、その日の料金を決定するのが主な仕事。料金は毎朝、水深と川幅を測って定められた。料金別の川札は「油札」とも呼ばれ、防水のため美濃紙に油が染み込ませてある。先端のこより部分をまげや鉢巻きに結び、旅人を肩や連台に乗せて渡った。
 最も水深が深く高額な「脇通」は94文(現在の価格で約2820円)。朝比奈主任学芸員は「事故も多く、危険な仕事だった」と話す。幕末には約650人の人足がいたという。

 島田市博物館 島田市河原1の5の50。国指定史跡「島田宿大井川川越遺跡」のそばにあり、「旅と旅人」をメインテーマに、近世の大井川川越しの様子や、川留めで栄えた島田宿の文化を伝える資料を常設展示。収蔵品は絵画や書、工芸品、武具などの美術品、歴史資料など約4千点。松尾芭蕉の「田植の連句」は7月3日まで、開館30周年記念収蔵品展で公開している。
 2000年、川越遺跡沿いの旧邸宅に博物館分館を整備した。静岡市出身の版画家海野光弘(1939~79年)の作品、明治~昭和時代の生活道具や農機具などを展示している。
 

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