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最多出場記録の名捕手も打席では苦労続きだった。「自分の打ち方を見失った」谷繁元信さん【プロ野球「名球会」連続インタビュー⑪】

 プロ野球のレジェンドに、現役時代やその後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第11回は通算3021試合出場の最多記録を持つ谷繁元信さん。横浜(現DeNA)と中日で守備の要を長く務めた名捕手に、あえて自身の打撃面についてうかがった。吐露された話の端々には苦労の跡がにじんでいる。(共同通信=栗林英一郎)

インタビューに答える谷繁元信さん=2021年6月2日、東京都渋谷区で撮影
インタビューに答える谷繁元信さん=2021年6月2日、東京都渋谷区で撮影
1988年11月、大洋にドラフト1位で指名され、胴上げされる谷繁元信さん=島根県江津市の江の川高(現石見智翠館高)
1988年11月、大洋にドラフト1位で指名され、胴上げされる谷繁元信さん=島根県江津市の江の川高(現石見智翠館高)
1998年10月、西武との日本シリーズ第3戦で本塁打を放つ谷繁元信さん。横浜の38年ぶり日本一に貢献した=西武ドーム
1998年10月、西武との日本シリーズ第3戦で本塁打を放つ谷繁元信さん。横浜の38年ぶり日本一に貢献した=西武ドーム
2006年10月、中日の2年ぶりセ・リーグ優勝を決めて大喜びする谷繁元信さん(右)。ただ、このシーズンの打率は規定打席到達者でリーグ最下位だった=東京ドーム
2006年10月、中日の2年ぶりセ・リーグ優勝を決めて大喜びする谷繁元信さん(右)。ただ、このシーズンの打率は規定打席到達者でリーグ最下位だった=東京ドーム
インタビューに答える谷繁元信さん=2021年6月2日、東京都渋谷区で撮影
1988年11月、大洋にドラフト1位で指名され、胴上げされる谷繁元信さん=島根県江津市の江の川高(現石見智翠館高)
1998年10月、西武との日本シリーズ第3戦で本塁打を放つ谷繁元信さん。横浜の38年ぶり日本一に貢献した=西武ドーム
2006年10月、中日の2年ぶりセ・リーグ優勝を決めて大喜びする谷繁元信さん(右)。ただ、このシーズンの打率は規定打席到達者でリーグ最下位だった=東京ドーム


根拠のない自信を危機感が上回っていった
 高校生だと、そこそこのレベルの選手でした。1988年のドラフト指名の際は、キャッチャーだった江藤智(東京・関東高=現聖徳学園高、後に広島入団)もいて、捕手で打てる右打者のくくり。打撃は正直、自信はありました。高校時代は本塁打を通算40本ぐらい打ったと思いますが、3年夏の地方大会で7本打って、それがかなり目立ったという形。自分としてはホームランバッターではなく、野手の間を抜いてヒットの本数を増やすタイプだと思っていました。
 入団時のチーム事情は、捕手のレギュラーが前年まで若菜嘉晴さんで、2番手に市川和正さん。市川さんは年齢が僕の一回り上です。原辰徳さんと同学年ですから、僕が入った時はもう30歳。たぶん、次の世代でポジションを埋めたいという考えで、僕は指名されたんです。
 1989年に若菜さんが日本ハムにトレードされてメイン捕手が市川さんになった。チームとしては僕を何とか早く使えるようにしたかったのでしょう。その時に僕が、そういうことを考えていたかというと、考えてないんです。それなりに1軍にいられて調子に乗っていた部分もあった。守備は全然駄目だったんですけど、試合数を重ねていくうちに打てるようになるだろうとか、甘い考えをずっと持っていました。根拠のない自信が僕の中にありました。
 それが1年、2年、3年と月日が流れていくうちに、やっぱり危機感というのが出てきました。僕の一つ二つ上の先輩方たちが、ちょっとずつ戦力外になっていく。その成績と照らし合わせた時に、下手すりゃ近いうちに自分かな、みたいな。試合には出させてもらってましたけど、数字というものが必要ですから。数字も全然上げられないし。その頃から、僕の根拠のない自信を危機感が上回り始めました。本当のプロということを意識したのは、4年目の終わりぐらいから。このままじゃ駄目だと。本当にやる気を出したというか、思いを変えなきゃいけなくなった時期ですね。

捕手は試合に勝たないと交代させられる
 出場試合数が増えたのは大矢明彦さんがバッテリーコーチで入った時からですね。5年目からです。5~7年目というのは大矢さんがバッテリーコーチで、監督が近藤昭仁さん、ヘッドが長池徳士さんというスタッフ。その中で正直、信頼されている感覚はなかったです。試合終盤や、ここぞという時は交代させられることが多かった。そういう期間が3年間ありました。当時の自分が比重を置いていたのは守り。僕はやっぱり試合に勝っていないと代えられると思う方でした。自分がゲームをつくって勝っている限りは代えられることはないだろうと。
 守備転向の話はありました。5年目ぐらいですかね。違うポジションで打つ方をやらせるのがいいんじゃないかという話はあったみたい。個人的に言われた記憶はないんですけど。オープン戦の時に一度、レフトを守らされたことだけは覚えています。プロ27年間で捕手以外を守ったのは2度なんです。その時のレフトと、落合博満さんの中日監督最後の年(2011年)のファースト。この2試合だけ。違うポジションでやりたいなんて考えたことないです。捕手が嫌だとも、もう無理だとも思っていませんでした。

自分の打ち方がなくなった時期が2年ぐらいあった
 試合に出られる可能性が高くなり、それにプラス打つ方で何を求められるかと考えた時、集中の度合いが打席や試合展開によって違うというのは正直ありました。打率2割5分を目指して、このポイントっていうところで集中力をさらに高めるということが、徐々にできるようになりました。年間の安打数は1996年にやっと100本を超えるようになりましたね。
 僕は子どもの頃から、ずっと父親や小学校の監督からレベルスイングを教わっていて、上からたたくようなバッティングじゃなかったです。それがプロに入った時に、当時は上からたたきなさいというのが主流というか、そういう指導方法で、僕はちょっと壁に当たりました。自分の打ち方というものがなくなった時期が2年ぐらいあったんです。そこからもう一度、自分はどういう打ち方がいいのかと高校時代のビデオを見たり昔を思い出したりしながら、プロに入って変な癖がついたものを取り除くことができたぐらいから、ちょっと打てるようになった。
 打順は5番まではありましたね。4番は1試合しかない。最初は8番、7番というのが多くて、その中でいろいろ教わったこと、考えなきゃいけないことが染み付いていました。場面によってバッティングをちょっと変えるとか、ここは何とか四球でも塁に出なきゃいけないとか、ここはゾーンを広めに攻めてくるから自分はつられないようにしなきゃとか。7番や8番での打席の考え方が自分の中では最後まで占めて、どの打順でも、それがなかなか抜けなかったです。
 レギュラーを取る前後で攻守の練習の割合は変わらなかったですね。守備6、打撃4ぐらいじゃないですか、頭の中でいうと。打つ方を3にはできないですね。かなりおろそかになります。打撃の調子を落とした際の切り替え方は持っていませんでした。技術がなかったんで。僕はスランプっていうか、調子が悪くなると、ものすごく長い。体の切れがないなとか、反応が遅いなとかスイングスピードが落ちているなと感じた時は、ダッシュを多めに取り入れました。体の力がちょっとなくなってきたなと思ったら、体調によってウエートトレーニングのやり方を変えたりとか。(調子の戻りを)待つというより、何とかしようと常にやっていましたが、僕の場合は結果として現れるのに時間がかかりました。基本的に僕は、そこまでのレベルにはいってなかったですね。左打者や足の速い人なら、苦しい時に内野安打が1本出れば全然変わってくる。右打ちの僕には、そういうのがなかった。

捕手でなければ、もっと打てたはず
 打撃理論的なものは、ある程度持っていますが、いざ形として出せたかと問われると、僕の場合は出せましたとは言えません。通算打率が2割4分しかないんで。僕の場合は長くプロ野球で過ごせたから2千安打できたっていうことです。なぜかとなると、守備を6割考えていたからだと思います。もし捕手じゃなかったら、自分で言うのもなんですけど、もっと打つ自信はありました。
 少年野球で捕手の面白さを教えるなら、やろうと思えば野球を全部自分で支配できるところ。キャッチングが面白いとか盗塁を刺した時が面白いとかでは、今の子どもは食い付いてこないと思います。一番大事なのはそっちなんですけどね。僕も正直、子どもの頃はキャッチャーなんかやってなかったし、やりたいとは一切思わなかったです。打つことが好きだったんで、そっちを考える方が多かった。守り重視の逆転は、自分が生きる道はそこだと思ったから。その思いをさらに強くしたのは35歳を越えてから。そこの考え方のランクが自分の中でもう一つ上がったというか。特にこれから自分が生きていくには守備だろうなと、より強く思いました。
   ×   ×   ×
 谷繁 元信氏(たにしげ・もとのぶ)島根・江の川高(現石見智翠館高)から1989年にドラフト1位で大洋(後の横浜、現DeNA)に入団。98年の日本一に貢献した。2002年に中日へ移り、07年に日本一。13年5月、当時史上最年長の42歳4カ月で通算2千安打に達して名球会入り。14年に兼任監督となり、3季目半ばまで指揮を執る。現役は15年限りで引退。ゴールデングラブ賞6度。通算2108安打。70年12月21日生まれの52歳。広島県出身。

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