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海軍兵学校最後の78期生 敗戦前提の教育意図、後に知る

 国内屈指のテーマパーク、長崎県のハウステンボス。ここには旧日本海軍が太平洋戦争中、幹部を養成する海軍兵学校の針尾分校を開設していた。戦争末期、海軍は敗戦を見越し、戦後の日本を担う人材を教育しようとしたとされる。海兵最後の78期生として昭和20(1945)年に15歳で入校し、敗戦までの4カ月半を過ごした浜松市東区の大庭直彦さん(90)は「将来? あの頃は死ぬことしか考えていなかった」と当時を思い起こす。

海軍兵学校から持ち帰った品のうち、唯一残る白手袋を手にする大庭直彦さん。制服は戦後の物資不足で全て着古した=7月末、浜松市東区
海軍兵学校から持ち帰った品のうち、唯一残る白手袋を手にする大庭直彦さん。制服は戦後の物資不足で全て着古した=7月末、浜松市東区

 国民学校や旧制中学で「国民は天皇陛下の赤子(せきし)」と教わってきた大庭さん。9歳上の兄は激戦地ガダルカナルで亡くなった。浜松一中(現浜松北高)から海軍兵学校を受験し、戦地で散る未来を描いたのは自然な流れだった。
 78期生は針尾島で一般科目を1年学び、江田島(広島県)の本校へ移る計画だった。記録『針尾の島の若桜』によると、4月3日に合格者4032人が入校。志願者は7万3千人に上った。
 日課は午前6時に起床、午後9時半就寝。45分授業を5限受け、「敵国語」とされた英語も学んだ。入校前、大庭さんは他の同級生と浜松市内の工場へ勤労動員され、勉強から遠ざかっていた。厳格な生活規範はあっても、のびのびと学んだ時間は「楽園だった」という。毎晩2時間強の自習時間も黙々と机に向かった。
 食事は、配給制だった一般国民の食料事情に比べ恵まれていた。「僕には多いくらい」で、炊き込み飯や煮物に、デザートが付くことも。身長160センチ、体重48キロで、当時としては体格がいい方だった。
 戦局の悪化で山口県防府市に移ると、生活が暗転する。衛生状態が悪く、赤痢が流行して隔離病棟に入院したが、薬は下剤だけ。「一日に36回トイレに駆け込んだ」
 8月半ば、昼前に病院の食堂前に集められた。雑音混じりのラジオ音声を、食堂の白がゆを眺めながら聴いた。日本の降伏だと分かったのはその夜。体重は32キロになっていた。
 大庭さんは戦後、京都大へ進み、浜松へ戻って公認会計士事務所と監査法人を設立。88歳まで現役を続けた。敗戦が前提だった海軍兵学校の教育の意図を知らされたのは終戦から約20年後。78期生の集まりで、当時の教官から「だから4千人も入校させたんだ」と明かされた。少年だった大庭さんが「日本は神の国」と信じて疑わなかった頃に、「そこまで考えていたのかと驚いた」
 今はこう思っている。「政府が軍部を抑えられずに戦争が始まり、多くの犠牲を出した。あんなばかな戦争、二度とやってはいけない」。(浜松総局・土屋咲花)

 <メモ>旧日本海軍の士官養成を目的とした全寮制の学校。1869(明治2)年に開設し、1945(昭和20)年まで続いた。太平洋戦争が始まると、1学年数百人だった生徒は数千人規模まで拡大した。42(同17)~44(同19)年に校長を務めた海軍中将井上成美は軍事学より普通教育を重視し、「敵国語」として廃止の流れにあった英語教育の存続などを押し通した。理由について「日本がこの戦争に負けるのは決まりきっている。皆でめちゃめちゃにしてしまった日本の国を復興させるのは彼らなんだ」(阿川弘之『井上成美』)と答えている。78期の記録『針尾の島の若桜』によると、井上の方針は78期の教育にもそのまま引き継がれた。78期生には、静岡文化芸術大名誉教授で工業デザイナーの栄久庵憲司、元経団連会長の今井敬、俳優の小沢昭一らがいる。

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