
太平洋戦争のさなか、静岡県内各地から召集された若者たちによる「静岡歩兵第118連隊」という部隊がありました。
戦争で途切れた、父と娘のつながり。
父の顔も、声も、記憶にないまま育った女性は、父が最期を過ごしたサイパンを何度も訪れています。
召集令状が届き...歩兵部隊に所属

静岡市清水区に住む深津芙美子さん(83)。1944年7月、サイパン島で父・歳男(としお)さんを亡くしました。
<深津芙美子さん(83)>
「これが父です。27歳で召集令状、29歳で戦死です。ここへ置いておけば誰かが見てくれる。確かにその人たちが存在したということがわかるじゃないですか」
軍需工場で働いていた歳男さんに召集令状が届いたのは、太平洋戦争中の1942年。静岡市で編成された歩兵第118連隊伊藤部隊に所属しました。
<深津さん>
「面会はしているらしいです。まだ静岡の連隊にいたから面会はできた。私が1歳7か月。だからわかりませんよね、覚えてなんかいない」
父は輸送船で横浜港からサイパンへ...
歳男さんは、1944年5月の深夜、静岡から列車で横浜港へ移動し、輸送船でサイパンへ向かいました。
当時、サイパンは日本の絶対国防圏に指定され防備を強化するため、兵士の輸送が進められていました。
<深津さん>
「父からはがきが届いたというんですよ。自分は帰れないから、親を頼むということだったと思いますよ」
輸送船攻撃で命を落とす…1歳8か月で遺された娘がたどるサイパン

輸送船は海上でアメリカ軍の潜水艦による攻撃を受けました。部隊3273人のうち、歳男さんを含む2200人が命を落としました。
歳男さんは29歳、深津さんは1歳8か月でした。
<深津さん>
「父たちがどういう経過でどういう所に行ったって分からないじゃないですか」
父と同じ部隊にいた男性 当時の状況を絵に

『父がどんな場所で生きていたのか知りたい』。
深津さんは、歳男さんと同じ部隊にいた男性と知り合い、当時の状況を絵にしてもらいました。そして1992年、初めてサイパン島を訪れたのです。
想像していたよりも、とても小さな島でした。
<深津さん>
「お父さんと同じ空気を吸っているんだ。あの山もこの木も、きっとお父さんも見たに違いないと思いましたね。本当に今まで感じたことのない気持ちでした。お父さんはここにいると信じました」
「父がいなければ今はない」
当時の話を聞きながら戦跡をたどり、足を止めた場所で一つ一つ線香を手向け、家から持参した井戸水を供えました。
その後も、11回、サイパンを訪れています。
<深津さん>
「父親に抱かれたとか父親の声も聞いた覚えもないですけど、でも父がいなければ今はないわけですから。こうやってつなげてくれたことです。だから私もつながるものがあればつないでいきたいと思います」
「先人たちの味わった苦労の歴史を忘れてはいけない」

歳男さんが所属していた歩兵第118連隊の慰霊祭です。戦後81年。遺族は高齢化し、参列者も少なくなっています。
<深津さん>
「一人一人の小さな一歩が力となり、先進国と呼ばれる今の日本を支えてきたと思っています。そのためには、先人たちの味わった苦労の歴史を忘れてはいけない。小さな慰霊祭でも続けていくことで、先人への思いはなくなることはないと信じております。来年もまた、ここで慰霊祭ができるよう、皆さんとお会いしたいと思います」
『戦争は、人類の最大の無駄遣いだった』
戦争で家族を失う人が二度と生まれないよう、願います。
戦争で途切れた、父と娘のつながり。80年余りの時を越えて、次の世代へつながれています。
深津さんの父・歳男さんの写真はたった3枚しか残っておらず、遺品は何一つ返ってきませんでした。
父親が生きていた証や当時の戦跡が少しずつ失われていく中、深津さんはサイパンの土を踏み、父親を思い続けたいと話していました。













































































