サッカー日本代表「ベルリンの奇跡」立役者は戦地で散った オリンピアン松永行が描いた夢【戦争と平和 つなぐ、つながる】

90年前、サッカー日本代表が強豪スウェーデンを下した「ベルリンの奇跡」。その立役者となった静岡県焼津市出身の青年は、日本から遠く離れた激戦地で戦死しました。

日本のサッカーをより強くしたい。戦場で散ったストライカーには果たせなかった夢がありました。

「ベルリンの奇跡」と呼ばれた決勝ゴール

県立藤枝東高校。数多くの日本代表選手を輩出している伝統校です。

90年前、卒業生の一人が世界の舞台に立ちました。焼津市出身の松永行(まつながあきら)さんです。

1936年、22歳で日本代表に選ばれ、ベルリンオリンピックに出場しました。

初戦の相手は、優勝候補のスウェーデン。2対2で迎えた試合終了間際。行さんが相手キーパーの股下を抜く劇的な決勝ゴール。

この勝利は、「ベルリンの奇跡」と呼ばれました。

手紙に残された心優しい素顔

8月6日、行(あきら)さんのおい、松永史郎さん(75)を訪ねました。

<松永史郎さん>
「行さんはこの人。背がちょっと高い。(行さんは)優しいということはよく言われる。それから、勉強熱心ということで、期待はされていたみたい。100メートルを10秒6と言ったかな。まあとにかく足が速いってことは、運動神経良かったんだな」

サッカー選手として将来を期待される中、行さんはオリンピックの翌年(1937年)、静岡の歩兵第230連隊に入隊し、中国、インドネシアなどを転戦しました。

戦地から家族へ送られた多数の手紙。そこには、妹の幸せを願い、弟の受験合格を喜ぶ心優しい素顔が記されています。

<史郎さん>
「自分がサッカーをもっとやりたいという風に思っている反面、何ゆえに陸軍に行かなければならなかったのか。どうも私には理解に苦しむところがある」

激戦地のガダルカナル島で戦死... 遺骨は戻らず

行さんが所属する230連隊は1942年11月、ガダルカナル島に上陸。

日本軍と連合軍が激戦を繰り広げ、2万人以上が命を落としました。行さんは28歳で戦死し、遺骨は戻ってきませんでした。

<史郎さん>
「『戦争に行きたくないよ』っていう話を言ってたことは聞いてはいる」

書き残されたサッカーへの想いと夢

ベルリンオリンピックのあと、行さんは日本サッカーへの思いを書き残していました。

『個人技の完成こそ世界制覇の第一歩である』
『ショートパスの速攻法をあくまでも伸ばす』

行さんはサッカーの指導者としての夢を描いていました。

2006年、親族の手により行さんが暮らした家の敷地に小さな石碑が建てられました。そこに刻まれているのは、一人の青年が確かに生きていた証です。

<史郎さん>
「政治とはちょっと切り離して行われるのがスポーツであり、またオリンピックであるという風に私は思っている。この人らの時は先を読むことは自分じゃできない時代だったからね。その点、いまは平和だよ、平和だと思っている」

松永行さんは、家族に「戦後、ドイツにもう一回行ってサッカーを学びたい」と話していたということです。

「あしたを“ちょっと”幸せに ヒントはきょうのニュースから」をコンセプトに、静岡県内でその日起きた出来事を詳しく、わかりやすく、そして、丁寧にお伝えするニュース番組です。月〜金18:15OA

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