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しずおか 桜にまつわる物語

 静岡地方気象台が桜の満開を発表し、県内各地から、桜を楽しむニュースがたくさん届いています。思いを込めて植えられ、大切に育てられ、多くの人が笑顔で眺める桜。その一本一本に、さまざまな物語がありますが、ここでは、静岡・興津の桜にまつわるエピソードを一つ紹介します。
 〈静岡新聞社編集局TEAM NEXT・柳沢毅〉

静岡気象台 桜「満開」発表

 静岡地方気象台は28日、静岡市駿河区の同気象台敷地内の桜(ソメイヨシノ)が満開になったと発表した。平年より6日早く、昨年よりも10日早かった。

満開を迎えた水見色川沿いの桜並木=静岡市葵区大原
満開を迎えた水見色川沿いの桜並木=静岡市葵区大原
 静岡市葵区大原を流れる藁科川の支流・水見色川沿いの桜並木も満開を迎えた。朝から好天に恵まれた29日は市民らが多数訪れ、今を盛りと咲く薄桃色の花を静かに観賞した。
 藁科中の校舎付近の土手では川面に大きく張り出した枝が幾重にも重なり、優雅な「桜の花のトンネル」を作り出した。時折吹く強い風に花びらが舞う中、訪れた人たちは思い思いの場所にシートを広げて陣取り、お弁当を食べたりしながら花見を楽しんでいた。

ワシントン「友好の桜」 実は静岡・興津育ち

 日本から届いた友好の桜の苗木に驚嘆の声が上がった。「アンビリーバブル(信じられない)」

「ワシントンの桜」の苗木を栽培した熊谷八十三。興津とともに数奇な人生を歩んだ=1941年12月7日(熊谷真太郎さん提供)
「ワシントンの桜」の苗木を栽培した熊谷八十三。興津とともに数奇な人生を歩んだ=1941年12月7日(熊谷真太郎さん提供)
■米国へ届いた完璧な苗木、驚嘆と歓喜
  1912(明治45)年3月13日、静岡市清水区の興津の地から遠くワシントンに到着した3千本の苗木は、米国人を歓喜に包んだ。輸入植物に行われる植物防疫で、病害虫はどこからも確認されなかった。当時の技術水準では奇跡に近かった。
  JR興津駅の北隣にある農研機構果樹研究所カンキツ研究興津拠点。当時、農事試験場園芸部だった施設には、「ワシントンの桜誕生の地」と刻まれた石碑が建っている。育苗担当の農業技師熊谷八十三らをたたえ、苗木発送80周年を記念して23年前に設置された。碑文はこう結んでいる。「我が国の当時の園芸研究者の心意気を示した」―と。
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 熊谷は日本の名誉を双肩に担っていた。「文字通りの命懸け。現代でも困難なのに、明治末期にこれほどの結果を残したとは」。同研究拠点で半世紀近くかんきつ開発に携わった元職員木原武士さん(74)=同区興津中町=は舌を巻く。
  米国に贈る苗木には完璧が求められた。まずは品種の選定と台木作り。東京・荒川堤にある59種もの桜の芽を切り取り、土がきれいな兵庫県東野村(現伊丹市)に自生するヤマザクラを台木に接ぎ木した。日本で人気のしだれ桜は西洋人には陰気に映るため外し、最終的にソメイヨシノや一葉、関山など12種に絞り込むなど、細かな配慮をした。
  最大の難関は病害虫駆除だった。熊谷はここで危険な手法を用いた。青酸ガスくん蒸。当時、試験導入されたばかりで、誤ってガスを吸い込めば、自身や周りにいる者も命を落としかねない。戦後しばらくは果樹栽培などで普及したが、国内では現在、設備の整った業者以外、ほとんど用いられていない。青酸ガスはナチスのホロコースト、オウム真理教(現アレフ)の新宿駅テロ未遂事件で使われた猛毒である。
  危険を顧みずに責務を果たした熊谷を、同研究拠点領域長の高梨祐明農学博士(54)はたたえる。「私たちの大先輩にこんなに素晴らしい人物がいた。この誇りをいつまでも受け継ぎたい」
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 桜を受け取った米国は、その感激をいつまでも忘れなかった。後年、太平洋戦争が起き、敵国関係になってもずっと。次第に暗い時代へと向かう中で、熊谷は何を思っていたのだろう。その生涯をたどると、驚くべき事実に出くわした。
  熊谷は、興津の地で戦争回避に奔走した最後の元老・西園寺公望の執事として、農業技師とは全く別の人生を歩んでいた。(一部敬称略)
  <メモ>ワシントンの桜 1912(明治45)年、東京市が米国のタフト大統領夫妻の要請に応えて寄贈した日米友好の象徴。ポトマック河畔の桜として世界的に知られる。同市は当初、日露戦争終結を仲介した米国への感謝も兼ねて苗木2000本を贈った。ところが、病害虫が確認され、全て焼却処分に。直ちに2度目の寄贈を決め、国内で数少ない園芸研究施設だった農事試験場園芸部に苗木栽培を依頼した。同河畔の桜は熊谷八十三らが育てた苗木やその子孫。米国は太平洋戦争中も「日本の桜」を「東洋の桜」と呼び変えて保護した。
(静岡新聞 連載「轍~しずおか戦後70年」2015年4月16日朝刊)
 

海を渡った“兄弟木”の「薄寒桜」 2005年、静かに寿命

 日米友好の証しとして米国ワシントン市に贈られ、ポトマック河畔に並ぶ桜の“兄弟木”として地域の人に親しまれてきた、静岡市清水興津中町の独立行政法人農業・生物系特定産業技術研究機構果樹研究所の「薄寒桜」が、樹齢94年になり、寿命を迎えようとしている。

ほとんど花を付けなくなってしまった薄寒桜=静岡市清水興津中町の農業・生物系特定産業技術研究機構果樹研究所
ほとんど花を付けなくなってしまった薄寒桜=静岡市清水興津中町の農業・生物系特定産業技術研究機構果樹研究所
■興津の果樹研究所で地域を見守る 花はわずかに
  明治43年、当時の尾崎行雄東京市長が病気のない苗木の育成を同研究所に依頼。全国から集められたさまざまな品種の苗が同研究所で栽培され、そのうち11品種3千本が米国に渡った。「薄寒桜」も同研究所で育てられた1本だが、国内の育成本数が少なかったため選から漏れ、そのままこの地に定植された。
  樹勢が急速に衰え始めたのは3年ほど前。垂れ下がった枝の重さに幹が耐えられず、亀裂や根の断絶が見られ、今年は枝先に数個の花を付けるだけとなってしまった。
  小さく淡いピンク色の花を枝いっぱいに咲かせ、山の中腹から地域を見守ってきた「薄寒桜」。地元の主婦滝田みどりさん(70)は「いつも優しい気持ちになれた」と振り返る。毎年開かれる同研究所の一般公開では“主役”を演じ、県内外の客に日米親善の歴史を伝えてきた。
  薄寒桜から接ぎ木した二世の植樹が同市清水興津地区の住民によって続けられている。約3千本の“子ども”たちを育成。公園や東名高速ののり面などで順調に育っている。また、同研究所内に植えられている14年目の二世も、初代に比べるとまだまだ貫録不足だがしっかりと花を付けているという。
  同研究所カンキツ研究部の長谷川美典部長は「50ー60年が寿命といわれる中でずいぶん長生きしてくれた」と話していた。
(静岡新聞2005年2月21日夕刊)
地域再生大賞