県勢躍動 五輪2連覇ソフトボール女子
東京五輪ソフトボール女子は、日本が決勝で米国を2ー0で破り、金メダルを獲得しました。前回実施された2008年の北京五輪から13年、再び感動をもたらしてくれました。県勢の渥美万奈選手、山崎早紀選手の活躍を振り返ります。
〈静岡新聞社編集局TEAM NEXT・安達美佑〉
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宿敵アメリカを2-0で破る 渥美、山崎が攻略の要に
日本は四回に渥美(トヨタ自動車、常葉菊川高出)の適時内野安打で先制し、五回に藤田(ビックカメラ高崎)の適時打で加点した。先発の上野(ビックカメラ高崎)が2安打無失点と好投。六回に先頭打者の出塁を許すと後藤(トヨタ自動車)を投入してピンチを防ぎ、七回に上野が再登板して無失点リレーで逃げ切った。
▽決勝
日本 0001100-2
米国 0000000-0
▽三塁打 リード▽二塁打 山崎▽暴投 上野2、アボット
▽試合時間 2時間3分
■米国との大一番 渥美の内野安打で先制
東京五輪のソフトボール決勝で宿敵米国を破り、2008年北京五輪に続く13年ぶりの金メダルを獲得した日本代表。前日の予選リーグ米国戦で登板を回避した39歳のエース上野由岐子(ビックカメラ高崎)が、相手打線を抑えた。
米国との大一番。上野は毎回のようにピンチを迎えるが、崩れない。四回、9番遊撃で先発した渥美万奈(トヨタ自動車、常葉菊川高出)の内野安打で1点を先制した。五回には藤田倭(ビックカメラ高崎)の適時打で追加点を奪い、六回に登板した後藤希友(トヨタ自動車)を経由し、最終回は再び上野がマウンドに上がって試合を締めた。
五輪種目除外から13年。大きな目標を失い、引退した代表選手もいた。だが、上野をはじめ、打の主軸となる山田恵里(デンソー)、捕手の峰幸代(トヨタ自動車)らは歩みを止めなかった。
ソフトボールは五輪での正式種目復帰を見据え、北京の栄光を知るベテラン組に若手を加え、2015年から国際大会で経験を積んだ。原則20人の強化指定選手を入れ替えながら合宿を重ね、五輪に照準を合わせた。
12年に代表初招集された渥美は内野の要、遊撃を任され、日本の守備を支えた。16年に代表初招集された山崎早紀(トヨタ自動車、常葉菊川高出)は国際大会で求められる強い打力を買われた。今大会は5試合連続無安打と苦しんだが、決勝で二塁打を放った。俊足を生かした守備と走塁で難敵の攻略に貢献した。
ソフトボールは24年パリ五輪で再び五輪から姿を消す。それでも山崎は言う。「次でなくなるのは残念だが、今後五輪で競技が復活するように若い世代に伝えたい。見ていて楽しい、やってみたいと思ってもらえればすごくよかった」。その思いが届いた金メダルだった。
守備職人の渥美 6回窮地を超美技で併殺
米国との決勝の舞台で守備の職人がまたバットでみせた。9番遊撃で先発出場した渥美万奈(トヨタ自動車、常葉菊川高出)が四回、先制の内野安打を放ち、一塁で喜びを爆発させた。
華麗なグラブさばきも健在だった。六回には三塁手に当たった打球を直接捕球し、併殺でピンチをしのいだ。終始安定した守備で投手陣をもり立てた。
2015年秋に右肩を痛め、手首を使った投げ方に変えた。練習を共にした経験があるプロ野球西武遊撃手源田壮亮の足の使い方を参考に、研究熱心な渥美はさらに素早い守備の動作を目指してきた。
「大事な場面で冷静に判断してみんなを落ち着かせたい」とピンチでも内野陣を落ち着かせた。今大会で上野由岐子(ビックカメラ高崎)がピンチを迎えても「上野さんならば大丈夫」とエースを信じ、堅実な守備で応えた。宇津木麗華監督も「上野はショートに打たせたい。確実に受け止めてくれるから」と渥美に全幅の信頼を置いた。
日本代表は30歳以上のベテランがチームの屋台骨を背負った。32歳の渥美もその一人。東京五輪の延期が決まる直前の昨年3月、渥美は言った。「せっかくここまで仕上げて2年延期だったらさすがにつらい」。一年一年が真剣勝負のアスリートの世界。1年延期が正式決定すると、覚悟を決め、五輪を競技人生の集大成として、これまで培った技術にさらに磨きを掛けた。
全試合出場の山崎、不振も決勝で二塁打 家族の期待を力に
27日に横浜スタジアムで行われた東京五輪ソフトボール決勝で米国を破り、13年ぶりの優勝を果たした日本代表の山崎早紀(29)=トヨタ自動車、常葉菊川高出=。「家族に良い報告ができるように頑張った」。大舞台で初安打となる二塁打を放ち、四回には送りバントで走者を進め高校、社会人の先輩の渥美万奈(32)の先制打につなげた。競技が盛んな掛川のソフトボール一家に育った29歳が、苦しみ抜いて世界一の座をつかみ取った。
山崎は小学校時代、指導者に左打ちを勧められた。一塁への距離が近い左打者はソフトボールでは重宝される存在だからだ。だが、山崎は慣れた右打ちにこだわり、断固として受け入れなかった。明さんは「自分もそのままやらせてほしいと監督に頼んだ」と振り返る。その決断が米国の大型左腕に対峙(たいじ)する日本の右の大砲を生んだ。
掛川北中時代には部員が少なく、合同チームでの大会出場を余儀なくされ、その後廃部も経験した。真理子さんは「早紀は(中学)3年間違うユニホームを着た」と娘の境遇を心配したほどだった。それでも本人は「ソフトを続けられたのは周りの協力のおかげ」と気にするそぶりもなく、全国大会に出場し頭角を現した。
五輪初戦から5試合連続無安打と不振が続き、心配した両親から「打っているところを見たい」とメッセージがあった。山崎は「ありがとう」とだけ短く返し、家族の思いを力に変えた。最後までフルスイングを貫き、堂々の金メダルのメンバーとなった。