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幕末の政治家・井上馨 晩年を過ごした静岡との縁

 幕末に伊藤博文らとともに近代日本の基礎を築いた井上馨(いのうえ・かおる)。晩年は、静岡市清水区興津の別荘「長者荘」で過ごしました。井上馨の生涯と静岡ゆかりの地について1ページにまとめます。

井上馨ってどんな人?

井上薫
井上薫
 1836年生まれ。長州藩(現在の山口県)出身の政治家。坂本龍馬、伊藤博文、西郷隆盛、勝海舟らと並び鎖国と攘夷(じょうい)に揺れた幕末維新期に名前が登場する。尊皇攘夷運動に加わり英国公使館焼き打ち事件にかかわった後、伊藤博文らと英国に密航し、帰国後は開国論に転じた。第1次伊藤内閣で外相に就任するなど主要閣僚を歴任。欧化主義政策を進め、鹿鳴館を設立したことで知られる。
 1896年には現在の清水区横砂から興津にかけた地に別邸「長者荘」を構えた。長者荘では茶会や園遊会を催したほか、広大な敷地でミカン栽培の研究、農薬の製法指導などに当たり、果樹研究所の開設につなげた。静岡茶の輸出をロシア大使に直談判したという記録もある。
 晩年は元老として政財界に絶大な影響力を及ぼし、長者荘で81歳の生涯を閉じた。

晩年を過ごした「長者荘」 空襲で焼失するも石塔は現存

井上馨の別荘にあった石塔をあらためて確認する柿沼守さん=2014年7月、静岡市葵区の浮月楼
井上馨の別荘にあった石塔をあらためて確認する柿沼守さん=2014年7月、静岡市葵区の浮月楼
 ※2014年8月12日 静岡新聞朝刊から
 明治の元勲・井上馨が静岡市清水区興津に築いた別荘「長者荘」の敷地内に設置し、戦争で行方不明になっていた石塔が、同市葵区紺屋町の料亭「浮月楼」に現存していることがこのほど、市民有志らでつくる「井上侯爵を顕彰し語り継ぐ会」の調査で分かった。
 長者荘は1896年に建造され、鹿鳴館を再現した西洋間などがある豪華な建物だった。空襲で焼失し、およそ5万坪の敷地内に点在していた石塔や灯籠、鐘楼など往時をしのぶ品もほとんどが散逸した。
 石塔は、敷地内の一角にあった「米糠山(こぬかやま)」と呼ばれる小高い丘の上に通じる道の脇に置かれていたという。高さ約2・7メートルの九重の塔で、盟友伊藤博文から贈られたとの説もある。
 戦後の混乱で長い間、行方が分からなくなっていたが、浮月楼社主の久保田明さん(63)が約10年前、長者荘の石塔ではないかとされる九重の塔を清水区内の旧家から譲り受けた。「語り継ぐ会」の存在を知った久保田さんが問い合わせ、会員らが写真と照合するなどして確認した。父親が長者荘の執事を務めていた柿沼守さん(80)=清水区=も、当時の記憶を基に間違いないと断言した。
 石塔は現在、浮月楼の庭園の一角にひっそりと立つ。同会の堀芳広代表は「今まで長いこと所在が分からなくなっていた貴重な遺産が、地元に現存していたことに感動した。今後も失われた遺品を探し出し、井上侯爵の功績に光を当てたい」と話す。
 ※内容は当時のまま

井上馨の遺品 静岡市に寄贈 肖像写真や伊藤博文の手紙も

伊藤博文が山県有朋に宛てた手紙
伊藤博文が山県有朋に宛てた手紙
 ※2018年7月13日 静岡新聞朝刊から
 幕末には尊皇攘夷(じょうい)派の志士、開国論者に転じて明治期は政治家として活躍した井上馨(1835~1915年)がのこした歴史的資料24点を、玄孫(やしゃご)にあたる井上光順さん(69)=東京都渋谷区=が(2018年7月)12日、静岡市に寄贈した。日本の近現代の礎を築いた人々に関する貴重な資料で、市は詳細に調査した上で(2018年)11月に一般公開する方針。2021年度に開館する市歴史文化施設の展示にも活用する。[※注釈=市歴史文化施設は22年7月にプレオープンした。グランドオープンは23年1月を予定]
 光順さんは市役所静岡庁舎で田辺信宏市長に目録を手渡し「後世につなげてほしい。井上馨についての事実を伝えるきっかけになれば」と話した。
 寄贈品は井上の肖像写真や内閣総理大臣を務めた桂太郎の書、徳川家の16代当主で初代静岡藩主を務めた徳川家達の書など。高杉晋作と桂小五郎の寄せ書きもある。
 民俗学者で市歴史文化拠点推進監の中村羊一郎さんが「面白い」と注目するのは、伊藤博文が山県有朋に宛てた手紙。攘夷運動が激しさを増していた1864年、長州藩内の派閥争いから起きた井上暗殺未遂事件の後、伊藤が井上を見舞った時の様子を伝えたものとみられるという。
 井上は山口県の出身だが、晩年を過ごした別荘「長者荘」の跡地(同市清水区)に市埋蔵文化財センターがある縁で、光順さんとは別の親族が2005年、遺品656点を市に寄贈した。
 光順さんも、井上が愛した場所で関連資料を一括して保存活用してほしいとの思いから今回の寄贈を決めたという。
 ※内容は当時のまま

大隈重信から井上馨へ 選挙協力乞う手紙見つかる

 東京専門学校(現在の早稲田大)を創設したことで知られる大隈重信(1838~1922年)が、現在の静岡市清水区横砂東町の別荘「長者荘」に滞在していた井上馨(1835~1915年)に宛てた手紙がこのほど見つかった。選挙への協力を乞う内容で専門家は「井上や西園寺公望といった元老が滞在していた興津の往時をしのぶことができる貴重な史料」としている。

大隈重信が興津の別荘にいた井上馨に宛てた手紙の封筒
大隈重信が興津の別荘にいた井上馨に宛てた手紙の封筒
 手紙は名古屋市名東区の税理士寺西利夫さん(67)が6~7年前にオークションで購入していた。毛筆で書かれているため内容が分からず、愛知東邦大の増田孝客員教授に現代語訳を依頼した。封筒の表には「静岡県興津 井上侯爵閣下」と宛名が記され、裏には「東京 大隈重信」とある。手紙の最後には日付と「重信」の署名が記されている。寺西さんによると、大隈が盟友井上に政治的協力を求めた内容とみられる。三井財閥の実業家として知られる團琢磨の名前も見て取れる。

増田孝愛知東邦大客員教授の現代語訳

 寒さの厳しくなる毎日ですがお変わりなくいらっしゃいますか。さて、私的なことでは、常に厚くご同情、ご援助下さり、感謝申し上げます。ところで、一両日前、三井家の團と早川氏に来邸してもらい、時局に関して細かく意見を述べました。続いて総選挙に関して、援助をしてほしいと話しておきました。いずれ両氏から閣下にも相談があると思いますので、もし相談があったならば、十分な援助をして下さるよう、頼んでいただくよう切望いたします。国家の大事を眼中に置かない政党に対しては、この際、なんとしてでも大打破をしなくてはならぬはずです。十分にご理解なさってご援助を心よりお願い申し上げます。とり急ぎましてお知らせかたがた、申し上げます。 

 清水の古文書調査を手がけている豊橋市図書館の岡村龍男学芸員によると、井上に関する史料はこれまでも地元で発見されている。ただ、散逸したり失われたりしている例も多い。岡村学芸員は「ともに歴史上の偉人の大隈から井上に宛てられた手紙は、当時の興津と中央政府の関係を考えるうえで重要な発見」と解説する。(清水支局・坂本昌信)
 〈2022.11.17 あなたの静岡新聞〉
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