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天下人 徳川家康の城「駿府城」 終の棲家なぜ駿府に?どんな城だった?

 JR静岡駅からほど近い、街中に広がる駿府城公園。国を動かした徳川家康の居城があった場所です。静岡県民おなじみの公園にあった駿府城とは、どんな城だったのか。家康が駿府を選んだ理由、近年の発掘や復元の成果、公園の見どころは。静岡市歴史文化課と市まちづくり公社への取材を元にまとめました。
〈取材・制作/静岡新聞社編集局未来戦略チーム 鈴木美晴・片瀬菜摘〉

日本の中枢 大御所の居城 

 

復元された東御門=静岡市葵区の駿府城公園
復元された東御門=静岡市葵区の駿府城公園
 駿府城は、徳川家康が晩年(66~75歳)を過ごした城。徳川による世襲を世に知らしめるため、将軍職を息子・秀忠に譲った家康は全国の大名に命じる「天下普請」により、 石垣を巡らせた三重の堀を持ち、本丸の北西に5重(6重説もあり)7階建て、勇壮な天守を構える駿府城を築いた。
 駿府を選んだ理由は、東西交通の要所という点に加え、当時まだ力のあった大坂城の豊臣軍勢が攻めてきた場合に江戸を守る意味合いもあったと考えられている。 城が位置する静岡平野は周囲を山や川に囲まれ敵から攻め込まれにくく、周囲より標高が高く水害が比較的少ない場所だった。 築城にあたっては堤防を築き、安倍川の流れを変えたとされる。
 1607(慶長12)年7月に家康が住み始めた駿府城は、わずか5か月後の同年12月、城内の火災により御殿などが焼失した。しかし直後から全国の材木が駿府に回され、年明けすぐに工事が再開。 1608(慶長13)年3月に再び完成し、家康は本丸御殿に戻った。当時は将軍・秀忠のいる江戸と、大御所・家康が側室や子どもと暮らす駿府とでいわば二元政治が行われていた。 ただ、実権は家康にあったとされ、駿府は政治・経済・外交の中心地として繁栄。城は日本の中枢と言える存在だった。城下町にも多くの家臣や職人が移住し、「駿府九十六ケ町」として整備された。 
 
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駿府城公園内の本丸跡に建つ徳川家康公の像〈2006年1月1日、静岡新聞朝刊〉

 家康の死後、城下町の火災(1635年)で天守は焼失。その頃は天下泰平の世となっていたため、権威の象徴である天守は再建されなかった。その後は陸軍招致のため、本丸堀を埋め戻した。公園で現在、家康時代のものが見られるのは、天守台の石垣のみだ。 天守の設計図面が残っておらず、詳細は明らかになっていないが、複数の史料からは銅や鉛の屋根を持つ唯一無二の姿だったことがうかがえる。 
 家康が公私を過ごした本丸御殿のあった本丸は、現在の公園中心部。家康の子どもたちが暮らしていた二ノ丸は、公園内の周縁部。家臣団が屋敷を構えた三ノ丸は、中堀と外堀の間の位置と考えられている。

家康?秀吉? 「天正の駿府城」天守の謎

 家康は大御所として天下普請で築城した「慶長の駿府城」より前に、駿河・遠江など5カ国を領有していた戦国大名時代にも「天正の駿府城」を築城していた。

出土した金箔瓦〈2018年10月17日静岡新聞朝刊〉
出土した金箔瓦〈2018年10月17日静岡新聞朝刊〉
 静岡市は天守台(天守を支える石垣の土台)跡地の整備方針を決めるため、2016年8月~20年3月、公園北西部で発掘調査を実施。2つの時代の天守台がそれぞれ確認されたほか、金箔瓦467点も出土した。 
 金箔瓦は天正期の天守に使われていたと考えられ、織田・豊臣両方の特徴が確認されている。市は当初、天正期の天守について「豊臣秀吉が家臣の中村一氏に築かせたと考えられる」との見解を発表した。しかしその後、天守台に連結する小天守台が発見され、 これが家康の家臣の日記の小天守造営に関する記述と一致することから「家康が秀吉の力を借りて築いた」可能性が浮上した。未だに専門家の間でも意見が割れている。
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ドローンで撮影した発掘現場(静岡市歴史文化課提供)

 園内の発掘現場では、天正期と慶長期の両方の天守台を見学できる。いずれも当時の本物の石垣で、異なる時代の遺構を一度に見られる場所は珍しいと歴史ファンから注目されている。 天正期は自然の石を積む工法「野面積み(のづらつみ)」で石垣の傾斜が比較的緩やかなのが特徴。一方、慶長期は加工した石を積む工法「打込接(うちこみはぎ)」が使われている。 

本格的な城郭建築 匠の技で一部復元

 静岡市は伝統工法によって、1989年に「巽櫓(たつみやぐら)」、1996年に「東御門(ひがしごもん)」、2014年に「坤櫓(ひつじさるやぐら)」を復元した。 

巽櫓と東御門。県内産の太い杉、ヒノキを多用して復元された
巽櫓と東御門。県内産の太い杉、ヒノキを多用して復元された
 巽櫓(たつみやぐら)は、全国にある城の櫓建築でも例の少ないL字型の平面をもち、防御に優れた櫓だった。現在は内部に、駿府城の歴史を紹介する展示が並ぶ。東御門は木造平屋、屋根は本瓦ぶき。 市内の旧家から見つかった絵図を基に、静岡大工建築業協同組合が中川根産の材木を主体に復元した。
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復元された坤櫓。骨組みには金物を使わない伝統技術が用いられている

 坤櫓(ひつじさるやぐら)は、城の中心から見て南西の方角に位置する櫓。当時は方位に干支が用いられていて、南西の方角は未(ひつじ)と申(さる)の間であることから名づけられた。櫓は矢蔵(やぐら)とも書かれる。 武器庫、物見、攻撃拠点としての役割があった。鉄砲や矢で攻撃するための塀の穴「狭間(さま)」や、石落としが再現されている。石垣にはハート形の石も。 公園を管理する市まちづくり公社によると、これはハートではなく古来から魔除けの意味を持つ「猪目(いのめ)」形で、平成の復元時に置かれたとみられている。
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ハート形に見える石。魔除けの「猪目形」と考えられている

駿河の国の名勝再現「紅葉山庭園」

 紅葉山庭園は、静岡市が2001年から公開している回遊式庭園。一般公募により、徳川家康の駿府大御所時代に駿府城の本丸御殿にあった庭園と同じ名前が名付けられた。

静岡県の名勝をイメージした庭園
静岡県の名勝をイメージした庭園
 庭全体で静岡県を再現していて、池は駿河湾、水際は伊豆の海岸線と三保松原、滝の流れは安倍川、中央の芝山は富士山をイメージしている。「里の庭」「海の庭」「山里の庭」「山の庭」の4つがあり、四季の変化が楽しめることからリピーターが多いという。
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「雲海」から眺める庭。青紅葉も風情があり人気という

 園内には数寄屋造りの茶室「雲海」、五畳半の小間「静月庵」もある。茶室の設計を手掛けたのは権威・中村昌生。立礼席では、徳川家康が愛飲したとされる安倍川・藁科川流域が産地の「本山茶」や、今川・徳川時代から生産されてきた抹茶を味わうことができる。
 
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