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鎌倉殿の13人 北条義時ってどんな人?

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公、ことし注目必至の北条義時。伊豆の国市ゆかりの義時は、実は現存する史料が少なく、謎の多い人物です。義時の経歴とゆかりの地について市内を歩き、まとめました。
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 〈静岡新聞社編集局TEAM NEXT・鈴木美晴〉

運命に翻弄され、権力の中枢へ

 北条義時は1163年、現在の伊豆の国市江間地区生まれ。父・北条時政、母・伊東氏の娘(名前は不明)の次男とされる。江間小四郎(えま・こしろう)、江間四郎(えま・しろう)とも呼ばれた。次男なのに、四郎と呼ばれた理由は不明。父・時政が四郎と呼ばれていたことにちなんだ名前と考えられている。

北条義時を演じる小栗旬さん=静岡県内(©NHK)
北条義時を演じる小栗旬さん=静岡県内(©NHK)
 乗馬が得意だったとされ、市内に現在も残る小高い丘「上の馬場」(伊豆の国市南江間)で練習していたと伝わる。平治の乱に一族が敗れて蛭ケ島(狩野川の中州だったと考えられる場所)に配流されていた源頼朝と姉・政子が結婚。また、源頼朝と平氏方の戦「石橋山の戦い」(1180年)で、兄・宗時が討死。こうした経緯から家督を継ぎ、父・時政と行動を共にした。
 源頼朝の側近として、平氏征伐や奥州藤原氏討伐で活躍し、鎌倉幕府の創建に尽力した。源頼朝の死後は、将軍となった源頼家を支える13人の重臣団(=鎌倉殿の13人※)の1人となった。将軍の後見として勢威を極め、父に次いで、将軍を支える重職「執権」の2代目に就任。姉・政子と共に執権政治を進めた。
 後鳥羽上皇が政治の実権を取り戻すべく、義時討伐のために挙兵した「承久の乱」(1221年)に勝利。 後鳥羽上皇らを配流し、朝廷の動きを監視する機関「六波羅探題」も設置。全国的な支配権を握ったが、その後に急死した。
 ちなみに、義時をはじめ伊豆の国地域出身の豪族で、鎌倉幕府の執権を世襲した北条氏は一般的に「鎌倉北条」「前北条」などと呼ばれる。一方、戦国時代に関東一円を支配した北条は「小田原北条」「後北条」などと、区別して呼ばれている。伊豆の国市郷土資料館によると、後北条氏の初代早雲の姓は元々「伊勢」で、2代氏綱の時に改姓をして「北条」になった。「北条」姓を採用した理由は、早雲が本拠を置いた伊豆韮山は鎌倉北条氏誕生の地であり、関東では親しみある姓であるからという説があるという。
 大河ドラマでは小栗旬さんが演じる。
 ※鎌倉殿の13人(重臣団) 北条義時、北条時政、比企能員、安達盛長、和田義盛、梶原景時、三浦義澄、大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、足立遠元、八田知家

ゆかりの地① 北條寺 義時眠る花の名所

 伊豆中央道・江間インターチェンジから車で5分。鎌倉幕府の二代執権・北条義時の眠る「巨徳山(ことくさん)北條寺」(渡辺文浩住職)は、伊豆の国市南江間の住宅街にある。

北條寺
北條寺
 創建は平安時代後期とされる。義時が、蛇に飲み込まれて命を落とした長男・安千代の冥福を祈って伽藍堂(がらんどう)を建立し、運慶に「木造阿弥陀如来座像」の製作を命じたと伝わる。本堂にはこの他、中国・宋様式の「木造観世音菩薩座像」、中国で製作されたとされ重厚な刺繍が施された「牡丹鳥獣文繍帳(もんしゅうちょう)」といった文化財もまつられている。
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境内で見頃を迎えた白い彼岸花〈2017.9.22 静岡新聞朝刊から〉

 この2点は義時の姉・北条政子が奉納したとされ、住職の妻の歳子さん(74)は「政子と義時の姉弟仲の良さがうかがえる」と話す。仏像と文繍帳はこれまで原則として非公開だったが、2022年から一般公開された。境内にある小高い丘は義時の幼名にちなんで「小四郎山(こしろうやま)」と呼ばれ、義時と妻(伊賀の方とされる)の墓がある。田方平野も一望できる。
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かれんな花を咲かせるロウバイ〈2020.1.28 静岡新聞朝刊から〉

 寺は花の名所としても知られる。1878年に花好きの住職が当時珍しかった白いヒガンバナの球根を3株植えた。その後に手入れを重ね、現在は2000株にまで増えた。毎年9月下旬に見頃を迎える。檀家から寄付を受けたロウバイも約250本あり、1月下旬~2月上旬に黄色い花と甘い香りで参拝者を楽しませている。
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北條寺の御朱印と御朱印帳

 義時の名前を記した御朱印は料金300円、青地に白いヒガンバナを描いた御朱印帳は料金1800円。このほか、安千代が学問からの帰り道に命を落としたことにちなんだ子どもの安全を祈るお守り、自転車競技の盛んな伊豆地域らしい自転車用のお守りもある。

ゆかりの地② 史跡北条氏邸跡(円成寺跡)

 史跡北条氏邸跡(円成寺跡)は、北条時政・義時・泰時が生きた時代の北条氏の館跡。 伊豆の国市寺家、守山の北西麓の狩野川沿いに位置する。約9000平方メートルに及ぶ発掘調査から、12世紀後半~13世紀前半の建物跡や排水溝などが多数見つかった。

史跡北条氏邸跡(円成寺跡)。現場には案内看板が立つ
史跡北条氏邸跡(円成寺跡)。現場には案内看板が立つ
 館の建物は、地面に穴を掘って直接柱を立てて組み立てる方式の「掘立柱建物(ほったてはしらたてもの)」。鎌倉時代の一般的な建物の構造だが、規模が大きく、塀に囲まれているのが北条氏の館の特徴と言える。 平安末期~鎌倉時代の約150年間に26棟の掘立柱建物と39基の塀が造られたとされている。
 発掘調査では常滑焼、渥美焼、中国の陶磁器など国内外各地の焼き物が出土した。この時代は日宋貿易で中国の商品が日本に運ばれていて 、国内では壺や甕(かめ)を大量生産する窯の操業が始まった。出土品からは、北条氏がこれらを入手できる財力と流通ネットワークを握っていた様子がうかがえる。さまざまな荷物が狩野川の水運や下田街道を通じて運ばれ、館は流通の拠点だったとも考えられている。
 史跡北条氏邸跡(円成寺跡)は北条氏の館跡と、北条氏の生き残りの女性らが一族の鎮魂のために建てた「円成寺」跡の複合遺跡。鎌倉幕府が滅亡して北条氏の多くの人々も滅びる中、一族の女性の一部は生き残った。 鎌倉幕府14代執権の北条高時の母である尼僧「覚海円成(円成尼)」がこの女性らを率いて、かつて北条氏の館があった場所と同じ場所に「円成寺」を建立したとされる。詳細は不明だが、円成寺は江戸時代には廃寺となったと考えられている。
(伊豆の国市文化財課編集「北条義時がうまれた里『伊豆の国』の中世」を基に作成)

ゆかりの地③ 北条義時館跡(江間公園)

 伊豆の国市南江間、史跡北条氏邸跡(円成寺跡)の北西に位置する。明治時代に刊行された地誌「増訂豆州志稿」に、「義時の館は江間村尋常高等小学校の敷地」という記述があることから、義時の館があった場所と推定される。 現在は江間公園として整備され、一角に「北條義時(江間小四郎)屋敷跡」と記した石碑が建つ。宗時という兄がおり、もともとは北条氏の嫡男ではなかった義時が、北条氏邸とは別の拠点で暮らしていた可能性を示している。

(伊豆の国市文化財課編集「北条義時がうまれた里『伊豆の国』の中世」を基に作成)
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