しずおかの空襲(浜松)
「見渡す限り、一面が火の海で自宅も炎上した。いつかこうなると思っていた」
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年6月18日未明、米爆撃機B29による無数の焼夷(しょうい)弾が浜松市街を焼き尽くした。同市中区富塚町の佐倉忠夫さん(83)は母校の県立浜松西高で生徒を前に、声を震わせ70年前の壮絶な浜松空襲の体験を伝えた。
午前0時ごろ。浜松二中(現浜松西高)2年で13歳だった佐倉さんは、すさまじい爆発音と父の怒鳴り声で飛び起きた。自宅は浜松城跡東側の元城町。横穴式の防空壕(ごう)へ逃げながら空を見上げると、B29はいつもより低空を飛び、大きな機影とエンジンの爆音がすぐ近くに迫った。
焼夷弾が次々と空中でさく裂。花火のような真っ赤な光を放って拡散し、家々を焼き払った。家財をリヤカーに積み込む男性、炎から離れようと幼い子を背負って逃げまどう女性。病気の家族を助けようとして逃げ遅れた人もいた。
佐倉さんは近所の住民十数人と一緒に防空壕に逃げ込んだ。窮屈で息苦しい壕内に赤い炎の光が差し込むたび、恐怖で震えが止まらなかった。
爆撃が落ち着くと、周辺の消火に取り掛かったが、焼夷弾の直撃で、自宅は屋根を突き抜けるほどの火柱を上げて燃えていた。4、5月の空襲で自宅周辺の建物はほぼ全壊した中でわが家は奇跡的に残っていたのだ。人が焼ける不快な臭いが鼻を突き、押し寄せる熱風が熱くて仕方なかったのを覚えている。
太平洋戦争末期、米軍による本土空襲は県内にも及んだ。浜松、静岡など各地に壊滅的な被害を与え、日々の暮らしを絶望の淵に追い込んだ。繰り返される爆撃に耐えるしかなかった市民の姿を見詰めた。
語り部の活動は10年ほど前、同級生の戦争体験をまとめた文集「戦争はいらない」の発行を機に始めた。「大規模な空襲を経験した自分たちこそが次世代に語り継がねば」との使命感に駆られた。
同校2年の益子愛莉さん(17)は「当時の人の思いを想像しようとしても現実味が湧かない」と率直だ。それでも「人ごとと思わず平和について考えたい」と受け止めた。
「国を守るには戦争しかないと思い込んでいた」と佐倉さん。講演ではあえて「今戦争が起きたら、戦地に行くのは君たちだ」と投げ掛けた。平和を守るためどうすべきか。「若い世代にもっと考えてほしい」と願う。