安全保障政策は危惧を押し切って集団的自衛権行使容認へ進み、戦争を知らない世代は総人口の8割に上る。
静岡新聞の県民意識調査(2014年末実施)では約4割が再び戦禍に巻き込まれるのではないかとの不安を挙げる。
今日の平和は多くの戦没者と、焦土を生き抜いた人々の上に築かれてきた。
重い荷を引きずるように歩んできた数知れない人生の轍(わだち)。
その一つ一つを県内にたどり、この国の行く道を見詰めた。同じ轍(てつ)を踏まないために。
私たちは今、平和な時代を生きている。
まるで自らが戦争に巻き込まれることなど、二度とないかのように。
だが、振り返ってみれば、戦前を生きた人々も同じだったのではないか。
当時、日本が歩んでいる道が戦争へとつながり、
とてつもない犠牲を生み出すことになるなど、一体誰が予想できただろう。
戦前から戦中、戦後、そして現在へ。
日本の歩みが凝縮されたこのまちは、
あの桜の花びらのように平和や友好がはかないことを教えてくれる。
だから見詰めたい。
興津が刻んだ“轍(わだち)”を―。
戦前
日本から届いた友好の桜の苗木に驚嘆の声が上がった。「アンビリーバブル」
1912年3月13日、静岡市清水区の興津の地から遠くワシントンに到着した3千本の苗木は、
米国人を歓喜に包んだ。
戦中
ゼロ戦から放たれた機銃の音がハワイ上空に響いた。複葉機が煙を吐いて落ちていく。
1941年12月8日、真珠湾攻撃が太平洋戦争の口火を切った。
戦後
かつて興津には穏やかな波が海岸線の岩礁を洗う清見潟があった。
だが今、清見潟は跡形もない。「あの海岸さえ残っていれば」。
興津で出会った人々は一様に嘆いていた。
「見渡す限り、一面が火の海で自宅も炎上した。いつかこうなると思っていた」
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年6月18日未明、
米爆撃機B29による無数の焼夷(しょうい)弾が浜松市街を焼き尽くした。
「包帯を外してくれ! 死んだ方がましだ」
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年6月15日、
激戦が続いていた沖縄本島南部の摩文仁村(現糸満市)。
伊原第一外科壕(ごう)に、一人の男性の声が響き渡った。
太平洋戦争の終結から2015年で70年になるのを機に静岡新聞社が実施した県民意識調査で、
日本が将来、戦争に関与する可能性について、
回答者の約4割が「参加する」「起こす」と考えていることが分かった。