<家族 命を守る>東日本大震災の教訓(上)

 「避難所に行かなければよかった。子どもが泣くたびにやじを飛ばされて、本当につらかった」

大竹真希子さんが普段持っているママバッグの中身。ジッパー付きビニール袋に少しずつ入れた必需品に加え、被災時に楽しめるよう未開封のトランプも=2月中旬、浜松市南区
大竹真希子さんが普段持っているママバッグの中身。ジッパー付きビニール袋に少しずつ入れた必需品に加え、被災時に楽しめるよう未開封のトランプも=2月中旬、浜松市南区


 2人の娘と浜松市南区で暮らす大竹真希子さん(35)は2011年3月11日、福島県の自宅で被災した。震度6弱。外では縄跳びの縄のように電線が揺れ、部屋の収納棚が右から左へ飛んだ。揺れが収まらないうちに1歳9カ月の次女を抱いて車に飛び乗り、長女がいる小学校に向かった。道路の至る所に段差が生じ、何度も体が跳ね上がった。そのたびに、胸が張り裂けそうな思いでアクセルを踏んだ。

 自宅は東京電力福島第1原発から31キロの距離にあった。長女を連れて戻ったが、防災無線は「外に出ないでください」「換気扇を回さないでください」と繰り返すばかり。放射能汚染の実態がつかめず、恐怖が募った。内陸側へ2時間ほど車を走らせ、避難所になっていた高校の体育館に身を寄せたのは震災から5日後のことだ。

 そこには200人ほどがいたが、小さな子を連れていたのは自分だけ。放射能汚染が心配で、娘たちは外出させられない。終日体育館で過ごした。互いの生活スペースに仕切りはない。片手を伸ばせば触れられる距離に知らない男性がいた。高齢者の転倒防止や防犯のため、夜間も電気はついたままだ。ラジオをつけっぱなしで寝る人もいた。娘に悪い影響がないわけがない。

 次女は乳離れはしていたが、おもちゃもなしに静かに終日過ごすことなど不可能だった。ぐずれば「うるさい」と怒声が飛び、無邪気な笑い声に冷たい視線が注がれた。邪魔者扱いされ続けた次女は次第に情緒不安定になり、昼夜問わず泣くようになった。怒鳴られるたび、次女を毛布でくるんで体育館の外に出た。再び体育館に入っても歓迎されていないのは分かった。

 親なら誰もが経験しているはずの後ろめたさなのに、理解者はいない。「普段どんなにいいおじさんだって、あの場にいたらそうなってしまう」。避難所には、良心をしのぐ絶望といら立ちが充満していた。妹につきっきりの母親に迷惑を掛けまいと我慢したのだろう。長女は震えが止まらなくなり、気持ちを言葉で表せなくなった。「無理して話さなくていいよ」。長女と筆談をしながら、大竹さんは自分を責め続けた。

 孤独な避難所生活で、子どもの必需品を入れたママバッグは、唯一「日常」を感じさせる心の支えだった。2本の輪ゴムは髪留めのほか、手首の袖口を締める防寒具に。大きなスカーフはよだれかけとマスクに。ママバッグの物を使い回す普段の工夫が役に立った。取っ手の長いバッグは、何かあったらリュックのように背負い、娘を抱き上げて走れる安心感があった。

 「静岡の避難所も似た状況になると思った方がいい」と大竹さんは言う。「だから、静岡のママには特別な事情がない限り、自宅での生活を考えてほしい。ケアや遊びのグッズを集約したいつものバッグがそばにあれば、きっとストレスは減るはず。心の余裕は子どもにも伝わるから」


<こち女の目>日常詰まったママバッグ

 大竹真希子さんは1カ月の避難所生活の後、浜松市に引っ越した。「母として全力を尽くせているだろうか」と自問する癖はすぐに消えず、新天地でも何かあるたびに大竹さんを暗い気持ちに陥れた。前向きになれた一つのきっかけは、避難所の過酷さとママバッグが果たす防災機能について、実体験を基に静岡のママたちに語ることだった。
 多くのママと同じように、私も大きなバッグを常備し、娘のおしりふきやおむつ、好きなおもちゃが入っているかチェックしている。大竹さんの話を念頭に置くだけで、物選びの視点が定まって心強い。身の回りで使えそうな物を探し、少しずつ加えようと思う。
 出産するまで、母親目線の防災を考えたこともなかった。大竹さんは、静岡のママが被災状況を具体的に描き、余計な不安なく「そのとき」を迎えられるよう、望んでいる。

(大須賀伸江)

 

 東日本大震災発生から間もなく4年。震災後、防災対策に女性の視点を盛り込む重要性が叫ばれ続けている。家族や命を守るために今、何が必要か考える。

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