「国策」と富士川(3)強制連行(上)過酷工事、逃走絶えず
「丈五尺三寸位 色浅黒 口大 鼻高 頭髪長ク七三分ケ 一見内地人ニ美ユ好男子…」
国立国会図書館収蔵の『戦前朝鮮人関係警察資料集:樺太庁警察部文書3(昭和16―17)』。当時日本領のサハリン・ユジノサハリンスクにあった豊原警察署長が管内に宛てた手配書には、富士川で急ピッチで進められていた日本軽金属の導水管や水力発電所工事現場から逃走した朝鮮人強制連行者とみられる120人以上の氏名が「本籍」や「人相着衣」とともに並ぶ。
全国に手配されたとみられるが、関連文書を現在確認できるのは豊原署のみだ。
終戦直前、今は人口も少ない「奥山梨」と呼ばれる富士川沿いの至る所に「飯場」と呼ばれる作業員宿舎が建ち並び、全長48キロ、直径6メートルの導水管トンネルや水力発電所工事のため、1万人の朝鮮人労働者がいた。
75年後の今、駿河湾産サクラエビの不漁を契機に注目を集める日軽金蒲原製造所(静岡市清水区)の導水管と同社の巨大水利権。元をたどればルーツは全てが戦争に向かっていた時代にある。水枯れや水害の恐れなどから沿川住民も国策に一時は立ち上がった。しかし、戦闘機ゼロ戦の材料増産のためという時代の波に押され、ふるさとの川を明け渡さざるをえなかった。
その工事の一端を担ったのが国策で当時「内地」と呼ばれた日本に強制連行されてきた朝鮮人労働者たちだ。
朝鮮人労働者の実態が体系立てて知られるようになったのは、1989年10月発行の『在日朝鮮人史研究』(在日朝鮮人運動史研究会)に数学塾経営の傍ら歴史研究を続けてきた在日二世の金浩(キムホ)さん(68)=甲府市=が初めて寄せた論文がきっかけだ。金さんが当時朝鮮人を統制した中央共和会『移入朝鮮人労務者状況調』を分析したところ、朝鮮人労働者1万人のうち半数は国家総動員法の下「募集」や「官あっせん」「徴用」などの方法で朝鮮半島南部・慶尚南北道などから強制連行されてきた人々だったことも初めて分かった。
「募集」といっても地域警察署ごとなど細かく割り当てがあり、当時は拒否できず意思と反した労働だった。金さんは「強制連行初期に属する土木工事としては、強制連行者数の点から日本有数だった」と指摘する。
突貫工事のため少なくとも36人が事故で死亡、けが人数は不明のままだ。論文では内務省警保局の資料から40~42年度(昭和15~17年度)の強制連行者の「逃走率」も独自に分析している。富士川第一発電所(山梨県南部町)の工事などが最盛期だった40年度は同県内で5割(全国平均は約2割)に上った。
「朝鮮人はかわいそう なぜかといえば 戦争のために おうちがぺっちゃんこ」―。同町で佐野オトリ店を営む佐野保さん(76)は小学生のときに誰かから教わった歌をかろうじて覚えている。
ただ当時の雰囲気を知るための資料は少なく、手掛かりを知る関係者は皆高齢だ。金さんは「日軽金は戦争中の国策で建設した発電施設をそのまま使い、戦後になって成長した」と指摘。その上で「現在の富士川の河川環境がそうした歴史の上にあることを知ってほしい」と訴える。(「サクラエビ異変」取材班)