川は誰のものか(6)信濃の取水は今(下)ダム放流増もなお不信

 不正取水事件に揺れた新潟県十日町市の信濃川の宮中ダム。下流域の住民は、当時の様子を越後弁で「こざいて(歩いて)渡れた」と述懐する。

不正発覚を受け十日町市役所近くにJR東日本が開設した信濃川発電所業務改善事務所十日町事務所の看板=3月上旬、同市内
不正発覚を受け十日町市役所近くにJR東日本が開設した信濃川発電所業務改善事務所十日町事務所の看板=3月上旬、同市内
かつての信濃川におけるサケの年間平均漁獲量推移
かつての信濃川におけるサケの年間平均漁獲量推移
不正発覚を受け十日町市役所近くにJR東日本が開設した信濃川発電所業務改善事務所十日町事務所の看板=3月上旬、同市内
かつての信濃川におけるサケの年間平均漁獲量推移

 時に河原砂漠と化した信濃川は、不正取水発覚の布石ともいうべき1998年の請願署名運動を展開した市民団体「信濃川をよみがえらせる会」の活動が実り、ダムの放流量は毎秒4トンから同40トン以上と増えた。
 運動を支えたのは当時市長だった本田欣二郎さん(88)。首長がこうした住民運動を応援するのは、当時も今も異例だ。
 なぜ、本田さんはそこまで市民運動に肩入れしたのか―。「角(かく)さんには悔しい思いもさせられたから」。本田さんは取材に、権力への複雑な思いが直接の動機となったことを吐露した。角さんとは、地元選出で「今太閤(たいこう)」と呼ばれた田中角栄元首相(18~93年)のことだ。
 建設当時の宮中ダムの取水許可量は167トンだった。150トンが新たに加わったのは84年8月。市役所に上乗せの話が国から持ち込まれたのはそれより数年前のこと。当時助役として折衝の窓口だった本田さんは反対の意向を伝えていたが、「上の方でもう決まっているんだ」と言われた。市民の反発を考えても認めざるを得なかった。「名前は言われなかったものの、上と言えば、角さんしかいない」。本田さんはそう振り返る。
 当時は首相を退き、ロッキード事件で逮捕されていたが、保釈後も政界で大きな力を持ち続け、地元の選挙では圧勝していた。
 時の権力者に屈せざるを得なかった悔しさが、市長として、政治家としての本田さんの立ち位置を決めた。回覧板で信濃川をよみがえらせる会の請願署名簿を全戸に回すことを提案したのも本田さん自身だった。
 宮中ダムの不正取水事件を受けて、JR東日本も社内改革を進めてきたという。
 全社員5万3千人を対象に法令順守の研修を毎年行うようにしたのも不正取水事件がきっかけだ。十日町市役所のすぐ近くのビルに現地事務所も開設した、同社信濃川発電所業務改善推進部の飯塚英之次長は「当時は国から許可された水利権が取り消されることがあり得るという認識すらなかった」と話す。
 一方、取水の許可上限値を実績値として記録するような不正なプログラムの設置経緯は不明なままだ。関係者は「国鉄時代に付けられたと思うが、確たることは分かっていない」と言葉を濁す。
 かつては周辺で年間4万匹も漁獲されていたサケ漁は衰退したままだ。事件後、当時の清野智社長らは十日町市などをおわび行脚。同市や周辺市町に対し7億~30億円を拠出したが、地元では川の水を私物化したJR東日本に対する不信感が拭えない。
 元高校教諭で、よみがえらせる会とは別の市民団体「信濃川を愛するみんなの会」の高橋洋一副会長(70)=十日町市=は「放流量40トンはまだまだ少ない。せめて川の水の半分をダム下流に戻してほしい」と訴えている。

いい茶0
あなたの静岡新聞 アプリ
地域再生大賞