雨畑ダム、歴史から検証 富士川開発、重鎮がけん引

 駿河湾産サクラエビの記録的不漁との関連が1年前から指摘され、本格的な科学的調査が待たれる日本軽金属の雨畑ダム(山梨県早川町)。高度成長期のアルミニウム製錬を支えながらも、激しい土砂流入で9割以上が埋まり、上流では深刻な水害も発生している。なぜダムは設置されたのか。どうしてこれほど土砂が流入するのか。富士川の水資源開発の歴史や地理的な視点から探った。

富士川電力時代、波木井、富士川第一、第二の各発電所を視察する当時50歳前後の内海ら=昭和初期、詳細不明(追想録「内海清温」から抜粋)
富士川電力時代、波木井、富士川第一、第二の各発電所を視察する当時50歳前後の内海ら=昭和初期、詳細不明(追想録「内海清温」から抜粋)
内海清温の年譜(主な出来事)
内海清温の年譜(主な出来事)
富士川電力時代、波木井、富士川第一、第二の各発電所を視察する当時50歳前後の内海ら=昭和初期、詳細不明(追想録「内海清温」から抜粋)
内海清温の年譜(主な出来事)


 日軽金が設立され蒲原工場(現・製造所、静岡市清水区)がアルミニウム製錬を開始した1939~40年、時代は満州事変から太平洋戦争へ風雲急を告げていた。航空機など軍需資材としてアルミの増産は“焦眉の急”。のちに雨畑ダムが建設される富士川水系開発の嚆矢(こうし)はこの時代にさかのぼる。

 富士川の開発をけん引した人物がいる。内海清温(1890~1984年)。敬虔(けいけん)なクリスチャンにして、戦後の土木、電力界の重鎮。政府が全国的な電力不足を受けて設立した国策会社「電源開発」の総裁として絶大な影響力を持ち、天竜川の佐久間、秋葉ダムを完成に導くなど、全国の大規模開発をリードした。

 ■若き日 挫折と試練
 明治中期、鳥取県倉吉町に生まれた。東京帝国大(現・東京大)で土木工学を修め、内務省に入ったが味気ないと4年で退官。大正半ば、野に下り、28歳の時に朝鮮半島で夢の水力発電所建設を任された。だが、ダムによる墓の水没を巡り民衆の反発を受け計画は中止。失意の中で内地に引き返し「こんなことだったら内務省を飛び出すのではなかった」と、後悔したという。
 帰国後、大淀川水系(宮崎県)の発電用取水ぜき「轟(とどろ)ダム」の建設所長を任された。完成にこぎ着けたが、政治問題も絡み、ここでも県民を挙げた反対運動に直面。「三十歳の所長にはなかなかの重荷」(追想録「内海清温」)で、「内海に政治性をつけさせた試練」でもあった。いつどんな目に遭うか分からないと、絶えず懐にピストルを持って歩いたという。
 昭和に入ると、内海は「会社の使用人は嫌だ」と、当時先駆けだった水力発電コンサルタントを“開業”した。黒部川(富山県)など各地で技術顧問を務める一方、東京帝大などで後進育成に尽力した。

 ■「国策」で陣頭指揮
 「(日軽金の前身の一つである)富士川電力に行かないか」。知人からこう誘われたのは日中戦争が始まった1937年。国防体制確立へ機運が高まる中、当時の蒲原町に計画が浮上したアルミ工場へ電力を供給する発電所建設の総責任者として白羽の矢が立った。
 取締役土木部長に就任し、蒲原で用地交渉が始まるとともに富士川筋で発電所建設をスタート。39年には東京電灯や古河電工との合併で国策会社としての日軽金が誕生した。内海は同社を去る41年までに戦時下のアルミ生産を支える波木井、富士川第一、第二の3発電所建設を陣頭指揮した。
 「当時としてはとてつもない大事業」(元日軽金会長松永義正)だった富士川の開発。内海は後年、轟ダム建設とともに思い出深い仕事として懐古した。
全国にダム水害も
 終戦を目前に内海は日本の建設コンサルタントの先駆けとなった建設技術研究所の初代所長に就任。56年には電源開発総裁に就いた。前後して熊本県球磨川の県営荒瀬ダム、電源開発瀬戸石ダム、天竜川の佐久間ダム、秋葉ダムなど全国でダム建設を推進。「戦後復興」という風が内海の背中を押した。
 ただ同時期、かつて建設所長を務めた轟ダムで撤去運動が激化。「轟ダム史」などによると、上流では堆砂で河床が上昇し終戦前から水害が発生。54年の台風12号で農作物などに壊滅的被害が出たのをきっかけに問題が噴出。国会で取り上げられるなどし、思い入れの深い轟ダムは40年足らずで撤去に至った。
 内海が電源開発総裁として完成を祝った秋葉ダムは1960年代に撤去運動が勃発した。計画立案に関与した荒瀬ダムは2018年に完全撤去した。同じ開発計画の中で作られた上流の瀬戸石ダムでは撤去要望が続く。いずれも堆砂に伴う水害が大きな要因となった。

 ■「総仕上げ」の雨畑
 「終戦後のアルミ産業は国防という意味で国家から助成されるべき重要性を失った」(日軽金二十年史)。民間として“独立”を迫られた日軽金にとって自家製電力の安定化は死活問題。渇水期の出力低下が避けられない既存水路式発電所の弱点克服のため電力増強が計画され、いわば総仕上げとして雨畑ダムは1965年に着工した。
 内海は既に日軽金を離れて20年以上。電源開発総裁も退いていたが、財団の初代所長を務めた建設技術研究所がダムの設計や工事監理を担当。建設現場で急性肝炎が集団発生し数人が身延の病院に入院した際、東京から見舞いに駆け付けた-とのエピソードが追想録で紹介されている。

 ■設計と調査 何度も
 堆砂率9割を超え水害を引き起こしている雨畑ダム。日軽金三十年史は「雨畑川は土砂流出が多い」と認めつつも「(ダムの寿命を長くする)国による砂防の見通しもついたので水利権を獲得」したと記す。地形地質に合わせ「従来試みられたことのない」不等厚、非対称のアーチ式ダムが「困難な地質条件を克服」して完成した。ダムの位置が何度も見直され、34番目の設計が採用されたという。
 日軽金土木担当部長内藤幸雄と建設技術研究所第1技術部長湯浅昭は、ダムの湛水(たんすい)を進めていた当時、専門誌に連名で「この規模のアーチダムとしてはおそらくわが国で最も地質がよくなかったものの一つ」と報告。「蒲原工場の増設問題などから、急に着工と決まり、基礎掘削を行いながら不足分の調査試験を行わざるをえない状況に追い込まれた」と記した。
 日本がバブル景気に向かう1984年、内海は93歳で人生の幕を閉じた。富士川の開発に深く関わった内海が、雨畑ダムの立地にどんな認識を持っていたのかを知るすべは、もはやない。

 ダムや水害の歴史をよく知る東京大名誉教授の高橋裕(92)=静岡市出身=は「電気も水も不足した戦後の復興期、社会はダムを求めていた。ダム建設に必ずしも適さない場所でも、ダムを造らざるを得なかったのではないか」と振り返る。
 (敬称略)

 うつみ・きよはる 大正~昭和期の土木工学者。土木学会長などを歴任し全国のダム建設をけん引。後進を育成し、戦後の土木、電力界に大きな足跡を残した。原子力発電の必要性も主張。電源開発総裁時代、社内に原子力室を設置した。

いい茶0
あなたの静岡新聞 アプリ